自己憐憫(れんびん)を始末する

自己憐憫とは何でしょうか?
広辞苑によると、憐憫とは「憐(あわ)れむ心とか可哀想(かわいそう)に思う心」とありますから、自分を憐れむとか可哀想に思うという意味になります。

これのどこがいけないのでしょうか?
言葉通りの意味ならば、ちっとも悪くありません。
しかし、この自己憐憫の出所(でどころ)が問題です。
それは他人を恨む心、自分自身を裁く心から出ています。

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1.他人を恨む心

「あれがなければ今ごろ自分はこうなっていたのに」とか「あの人のせいで自分はこうなってしまった」と考え、自分を可哀想に思っているならば、その感情は有害です。

なぜなら恨みの感情は私たちにストレスを与え、何かによってストレスを解消するように働きかけます。
それは飲酒であったり、ギャンブルであったり、買い物であったり、ときにはパートナーへの暴力行為となって現れたり、反社会的な性行動という形をとることもあります。

2.恨みの感情は自分と神を切り離す

私たちの心は三重構造になっており、一番上の表面意識が「自分」であり、その下が潜在意識と呼ばれる「自分自身」です。
さらにその下に神がおられます。

私たちの自己意志は超強力な存在であり、それ故に暴走しやすいのです。
ですから私たちは自己意志を手放して、神に委ねる必要があります。
これが12ステップの3にあたります。

暴走しやすいと言われるのはおもに潜在意識である自分自身と呼ばれる部分です。
それで心の表面意識である「自分」が心の一番奥底におられる神と結び付いて、真ん中の潜在意識である「自分自身」をコントロールします。
この時に恨みの感情が処置されずに残っていると、自分と神が繋がることが出来ません。
ですから、どうしても恨みの感情を処置する必要があります。

3.神の意志とは何か?

神の意志とは正しい判断ということであり、合理的な判断ということです。
この神の意志にトライ&エラーを繰り返しながら到達します。

依存症者の特徴は「このやり方ではダメだ」と分かっていることを性懲(しょうこ)りもなく「今度こそ大丈夫かもしれない」と思ってしまうことです。
この「大丈夫かもしれない」と考える根拠は何か?と問われても答えることができません。
ただただ妄想に取りつかれたかのように同じ行動を強迫的に繰り返します。

疑似依存症者(パラアルコホーリク)と呼ばれるACも同様です。
依存症者およびACが回復するというとき、それは不合理な判断を捨てて、合理的な判断が出来るようになることを指しています。

4.恋愛依存症のこと

自分は異性に惚れっぽいという傾向を自覚しているにもかかわらず、なおなお惚れては捨てられてを繰り返す人がいます。

これを「人間だから仕方ない」と開き直るか、「これは病気であり、自分はこんなことをしていてはいけない。回復しよう」と考えるかは個人の自由です。

しかしその結果は天と地ほどの違いをもたらすことを知っていなければなりません。

5.自分を裁く心

「あの時、もうちょっと頑張っていればなぁ~」とか「何で自分はちゃんと出来ないんだ」と思う心は他人を恨む感情と同じぐらい有害です。

なぜなら自分を裁く心は自分自身を恨んでいるのと同じだからです。
自分と自分自身の健全な関係は、何かが出来なかったり失敗した時、間髪(かんぱつ)を入れずに「そういうこともある。気にしないことだ。ドンマイ!」と自分が自分自身に言ってあげる関係です。

しかし自分を裁く心があると、ただでさえ弱っている自分自身をさらに弱らせます。
まさに「青菜に塩」です。ペッチャンコになってしまいます。

6.他人を恨むのも自分自身を裁くのも本質において同一

片方だけ捨てることはできません。
捨てるときは両方です。
しかし実際に捨てるときは片方からになります。

たとえば他人を恨むのを止めるようにすると、しばらくすると自分自身を裁いていたのに気づくようになります。

逆に自分自身を裁くのをやめ、積極的に赦し受け入れていくようにすると、しばらくすると他人を当たり前のように恨んでいたことに気づくようになり「こんなことをしていてはいけない」と感じるようになります。

◎他人を恨むことを止め、自分自身を裁くことを止めるとき、不思議なことが起きます。
自分の中から自己憐憫がなくなっているのに気づくようになります。
「自己憐憫って何?」と思うときが必ずやってきます。
平安と祝福を祈っています。

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