信じたら救われるという教えは傲慢か?

「だから私たちは神の慈愛と厳しさの両方を知っていなければならない。神の慈愛は恵みの中に止まっている限り、あなたがたの上にある。」[ローマ教会への手紙11章22節]

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1.現代ユダヤ人への伝道について

もし現代のユダヤ人たちに「イエスを信じたあとでも律法を守る生活をしてかまわない」と言ったとしたら、それはどういうことになるでしょうか?
少なくともパウロが必死になって戦い守ろうとした真理、すなわち律法を守ることによって救いに到達する道ではなく、恵みによって信仰によって救われるという道はあやふやにされてしまうでしょう。
そんなことをする権利が私たちにあるでしょうか?

2.『信じるだけで救われる』という教えの真意

ある人々は信じるだけで救われるという教えは傲慢極まりないと言われます。
なぜならそれは自分だけが救われればよいとする教えだからだそうです。
また救いを個人に限定するのは野蛮であるとも言います。

あきれて物が言えないとはこのことです。
なぜなら救いとはまず個人を救うものです。
そして救われた個人が、家庭を救いに導き、地域に救いを宣べ伝え、社会を改革し、国を民主化し、世界から貧困と暴力を根絶するのです。
聖書が教える順番というものがあります。

『信じるだけで救われる』という教えを、『信じなければ救われない』教えと言い換えることは神の御前で許されるでしょうか?
いいえ、決して許されることではありません。

3.救われるための二種類の二つの道

彼らは救われるために二つの道を考えています。
一つは信じなくても皆が救われてしまうという道です。
もう一つは信じなければ救われないという道です。

この前提に立つ限り、出てくる結論は決まっています。
ですからこの前提が間違っていることを明らかにしなければなりません。

聖書も救われるために二つの道を提示しています。
一つは律法を守ることによって救われる道です。
もう一つは行いによらず恵みのゆえに信じるだけで救われる道です。

彼らの前提が正しいのでしょうか?
それとも聖書の前提が正しいのでしょうか?
社会の現実を見て、また自分自身の内面を見て、どちらが正しいことを言っているかを判断する必要があります。

4.努力によって救われる道とありのままで救われる道

律法を守ることによって救われる道とは、要するに「あれが出来たら合格、これが出来なければダメ」という生き方であり、そのような生き方の頂上・終点に救い(真の満足)があるとする価値観です。

聖書はこの世的な価値観に対してはっきりと「そのような生き方には終わりがない。延々と努力が続くだけであり、最期は徒労で終わる」と言っているのです。
そして行いによって救われるという生き方に別れを告げ、その対極にある生き方としての神の恵みによってただ信じるだけで救われるという生き方を選択するようにと迫っています。

聖書の教えは首尾一貫(しゅびいっかん)しており、誰にも理解することが可能です。

5.信じなくても救われるという教えの出所

これに対して信じなくても誰でも救われるという教えは一見物わかりがよいように見えます。
しかしこの教えは現実の社会の問題や私たちが内面に抱える問題を直視していません。

彼らの問題意識は「信じないと救われないのか、それとも信じなくても救われるのか?」というものですが、そんなものは誰も問題にしていません。
彼らの問題意識は現実の社会から出てきていません。
彼らの問題意識は教会という狭い社会意識から出てきているように思えます。

聖書が問題にしているのは「努力によって救いに到達するのか、それとも恵みを信じる信仰によって救いに到達するのか?」ということです。

◎信仰者が力強くあることが出来るのは、現実の問題に対する解決を明確に社会に提示できているときです。
もし信仰者から恵みを信じることによって救われる道が失われてしまえば、社会に対する影響力も失われてしまうでしょう。
そうならないように願っています。
平安と祝福を祈っています。

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