原因は無力、解決は神、目的は回復。

「生まれながらの私たちは無力になっていて、律法の要求することを行えなかったのを、神が出来るようにして下さった。」[ローマ教会への手紙8章3節]

この部分を読んでいると、なにか12ステップの1と2を読んでいるような錯覚を覚えます。

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1.無力を認める

「私たちは無力」とは、律法の要求する行為を行えないということです。
律法とは、人が救われるために神が「これこれのことを行えよ」と与えてくださった取り決めです。

しかし律法が与えられた真の目的は別のところにありました。
それは律法を守ることは誰にも出来ず、その故に律法を守ることによっては誰も救いに到達できないということを、私たちが骨の髄から納得するためでした。

このような説明を聞くと私たちは「ふ~ん」とか思いがちです(笑)。
しかしこれは二千年前のユダヤ人だけの問題ではなく、現代に生きる私たちの問題でもあります。

私を含めてですが、無力を認めていると言うにしてはどうもおかしいと感じることがあります。
なにか万能感に満たされている感じが漂ってくるのです。
無力を認めているなら、決して口にしないであろうことが口をついて出るのは私たちが抱える深刻な問題です。

無力を認めるという前提が崩れたら、すべてが崩れてしまいます。
建物の土台と基礎が崩れたら、その建物は使用不可になってしまいます。
それと同じようにキリスト教信仰の土台である(12ステップの土台でもあります)無力を認めることから無意識的であっても離れてしまうなら、私たちはキリスト教信仰が約束するすべての約束を受け損なってしまいます。
私たちお互いは心したいものです。

2.神が出来るようにしてくださった

12ステップの2には「自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった」とあります。

自分の無力を認めてはいるが、どういうわけか神には頼りたくないという方もおられます。
これはわからなくもないですが、大変おかしな言いぐさであると言わなければなりません。

なぜなら問題の本質が「自分の無力」にあると悟ったら、問題の解決は自動的に「無力である自分以外の存在」に頼ることであるとなるからです。

この自分以外の存在を12ステップでは「自分を超えた大きな力」と表現しています。

3.無力を認めるのと神に頼るのはセットになっている

このような訳で無力を認めることと神に頼ることはセットになっています。
両者を切り離すことは決して出来ることではありません。
無力を認めるとは悔い改めることであり、神に頼るとは神を信じる信仰を持つということです。

信仰を持ってはいるが悔い改めたことがないというのはあり得ないことです。
同様に自分が無力であることを認めてはいるが、神を信じていないと言うなら、それは偽善者以外の何者でもありません。

◎平安と祝福を祈っています。

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