健全な考え方と聖書的理解という視点から油そそぎを考える。

今日は皆さんとご一緒に、健全な考え方とは何か?また聖書的視点から見た油そそぎとはどのようなものかを考えます。

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①キリスト教全体を見る必要

これまでキリスト教会の記事を書くと、リベラル派の信者はリベラル派についての記事だけに、福音派の信者は福音派についての記事だけに反応するということが度々(たびたび)ありました。

しかしそのような態度は健全なものとは言えません。
カトリックまで範囲に含めるかどうかは別として、少なくともリベラル派・福音派・ペンテコステ派の三派を考慮に入れて物を考えることが必要です。

そうしない限り、いつまで経っても蛸壺(たこつぼ)の中から抜け出れないというか、井の中の蛙(かわず)のままで終わってしまうことになります。
物事を俯瞰(ふかん)して考える習慣と、物事を自分の身近に置き換えて考える習慣の二つとも大切なことです。
ただし、どちらか一つだけの考え方しか持っていない場合は具合が悪いことになります。
両方の考え方を身に付けていくことがとても大切なことであろうと思っています。

②各派の説教の特色を知っておく

リベラル派はこのような説教をし、福音派はあのような説教をすると知っていたら、たとえ少し問題のあるペンテコステ派の説教を聴いたとしても評価は違ってくるのではないでしょうか。
もちろんカルトの問題や信徒の人権の侵害は別ですが、「説教が(自分が思っているような形で)完全に聖書的でないぐらいは仕方ない」と思うのです。

また説教の中に証(あかし⇨体験談のこと)が多いのも、ある面から見ると「私はこうやって問題を解決した」という解決方法の提示になっています。
ですから聖書そのものに対する言及が少ないということは問題ですが、証が多いということ自体には何の問題もないと考えています。

➂ペンテコステ派が強調する油注ぎとは?

油注ぎとは聖霊に満たされることを指して、聖霊派と呼ばれる教会の中で使われることが多い言葉です。

新約聖書のヨハネの手紙第一の2章20節と27節に「そそぎの油」という言葉が出てきます。
しかし、この箇所において使用されている言葉の意味は前後の文脈から考えて、聖霊充満という意味で使われておらず、御霊なる御方が信者お一人お一人に住まわれているという意味で使われているのが明らかです。

ここでは聖書本来の言葉の意味ではなく、聖霊に満たされ続けるにはどうしたら良いかという視点で考えます。

④どうやって聖霊に満たされ続けるか?

ある方は祈りによってと言われるでしょう。
しかし、ありのパパは次のように考えます。
もし長く祈って油注ぎを受けられるのであれば、長く祈った人は間違いなく高慢になるでしょう。
またそのような価値観(聖霊に満たされ続けるには長く祈ること)を持っていて、なおかつ長く祈れていない人は自己卑下・卑屈になるでしょう。

これはある意味では当然のことです。
しかし、このような理解は正しい聖書的な理解とは言えません。
なぜなら油注ぎを受けていないから卑屈になり、今度は油注ぎを受けたら高慢になるというのでは、これはまさしく律法主義以外の何物でもないからです。

⑤聖書は何と言っているでしょうか?

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」[テサロニケ教会への手紙第一5章16節~18節]

聖書は、30分でもなく、まして長時間でもなく、絶えず祈っていなさいと命じています。
絶えず祈るためにはどうしたら良いでしょうか?
そうです。生活が祈りそのものになれば良いのです。
では生活が祈りそのものになるにはどうしたら良いのでしょうか?

生活が祈りそのものになっている状態とは、神の恵みと力が私たちの心と生活に無尽蔵に流れ込んでいる状態です。
神と私たちの間を妨げる障害物(性格上の欠点・短所)を取り除いておけば、神の恵みと力は私たちの心と生活の中に流れ込んで来ます。

12ステッププログラムこそは、この障害物を特定し、それを取り除いていくためのプログラムなのです。
そういう訳で、この事のために12ステップが有効であると信じてブログ記事を書いております。

◎私たちお互いは性格上の欠点・短所を神に取り除いてもらい、神の恵みと力を存分に体験させていただきたいものです。
平安と祝福を祈っています。
常時喜悦、不断祈祷、万事感謝!(文語訳聖書より)

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コメント

  1. マッキー より:

    ありのパパさんへ

    お早うございます。
    物事を俯瞰して考える、物事を身近に置き換えて考える、この二つの考える習慣は本当に大切ですよね。
    ただ私には、適切なバランスをとるのが、難しく感じてしまいます。
    物事を俯瞰して考えてばかりいると、上から目線になったり他人事になってしまったり、物事を身近に置き換え過ぎると、依存、共依存状態になってしまったり、要らんことに没頭してしまったり…。
    未熟なのか愚かなのか訓練不足なのか…。

    「生活が祈りそのものになれば良いのです」、至言ですね。本質を短い言葉でズバッと言えるように、私もいつかなりたいものです。
    広い意味での「油注ぎ」はありのパパさんの仰る通りだと思います。

    ただ狭い意味での、密室の祈りでのみ与えられる御霊の著しい傾注(「魂への情熱」オズワルド・J・スミス)としての「聖霊の油注ぎ」もあると思います。
    分かりやすくするために物凄く極端な例を挙げますと、「ブレーナードの日記」に出てくるデービット・ブレーナード、「祈りのハイド」に出てくるジョン・ハイド、等々です。

    • ありのパパ より:

      こんばんは、マッキーさん。
      コメントをありがとうございます。

      懐かしいですね、「ブレイナードの日記」、「祈りのハイド」。
      これに孤児数千人を祈りだけで養ったジョージ・ミュラーの三人が揃えば、まさに『祈りの御三家』となりますね。
      どれほど大きな影響を与えられたか分かりません。
      しかし、彼らは忠実な聖書信仰者でしたが、彼らの伝記を書き、彼らの伝記を読んだ私たちは果たして忠実な聖書信仰者であったといえるでしょうか?
      私はそうではありませんでした。

      私のお腹の中で「はは~ん、そうか。分かったぞ。こう祈ればああなるのだな」とコーラの自動販売機のような奇蹟製造機を作り上げてしまいました。
      彼らを通してなされた神の御業は彼らだけのものであり、私たちを通してなされる神の御業は私たちだけのものです。
      この一般的な神の業と、特定個人に現される神の業を識別するのが、聖書を読む理由の一つです。

      この返信を書く前に自分の本箱を見ましたら、この祈りの御三家の本が並んでおりました。
      機会があったら、また読み直してみたいものです。

      またコメントしてください。お待ちしています。

      • マッキー より:

        ありのパパさんへ

        お早うございます。
        おぉー、信仰図書の好みまで、かぶっているとは驚きです。

        「彼らを通してなされた神の御業は彼らだけのものであり…」アーメンです。
        偉大な聖徒たちに感動し、共感を覚え、模範としても、彼らを普遍化、一般化して生活上実践をしようとしたり、不健全に傾倒したら、物凄く見当違いな方向に行ってしまいますものね…。

        以前、ウォッチマン・ニーに傾倒し過ぎた人達が、物凄く残念な方向に向かってしまったことを、ふと、思い出しました。
        偉大な聖徒たちの証は素晴らしいものですが、いつも聖書に立ち返りたいと思いました。

        • ありのパパ より:

          こんばんは、マッキーさん。
          コメントをありがとうございます。

          そうですね。いのちのことば社の信仰図書で育てられました。
          いのちのことば社の善き働きに感謝です。

          またコメントしてください。お待ちしています。