「聖書は誤りのない神の言葉」という信仰を問題解決のために適用する。

『簡単でありましょうと複雑でありましょうと、私が神様に祈っておりますことは、王様だけでなく、今日私の話を聞いておられる皆さんが私のようになっていただくことです。この鎖につながれることは別にして』[使徒26:29]

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①初代教会が持っていたメッセージの直截(ちょくさい)性

パウロのメッセージは明確で直截的です。
正直であろうとする人なら、だれもがイエスを信じざるを得ないと感じるほど強力であったのを、この箇所から見ることが出来ます。
当時の支配階級の人々がパウロの説教を聴いて悲鳴を上げているのです。

現代に生きるキリスト者はどうでしょうか。
私たちのメッセージを聞いて、支配階級の人々がたまらずに悲鳴を上げるというようなことがあるでしょうか?
ありのパパは聞いたことがありません。
この理由は支配階級の人々の心に問題があるというよりは、メッセージする私たちの側に問題があると言えるのではないでしょうか?
配慮に配慮を重ね、結局何を言っているのか分からないようなメッセージになっているように感じます。

②リベラル派キリスト教の説教に感じること

この傾向はリベラル派キリスト教に格別に感じます。
それは同じキリスト者(福音主義)が聴いても何を言っているのか分からないほどです。

その根本的な理由は聖書を誤りのない霊感された書物として認めないところにあります。
彼らの説教は一見、聖書の話に終始しているように見えます。
そうであるなら「結構なことだ」となるはずですが、そうなりません。
そうならないどころか欲求不満に陥ります。

なぜなら多くの人々は「私はそんな聖書の話などに興味はない。私が聞きたいのは、今悩んでいるこの私の助けになることだ。問題解決のためのヒントが知りたいのだ」と感じているからです。

聖書を誤りのない霊感された書物であると信じない限り、いくら聖書を解説したところで、その説教を聞く人々の心に「聖書こそ、問題解決の鍵である」という確信が生じることはないのです。

➂福音主義キリスト教の説教はどうか?

では福音派・ペンテコステ派教会はどうでしょうか?
リベラル派に比べればまだましと言うところですが、それでもまだまだという感じが拭(ぬぐ)えません。

なぜなら正しい聖書釈義がされているのは良いのですが、その聖書釈義をどのように生活に適用すればよいのかというところにまで届いていないからです。

それで説教を聞く人々は内心「問題が解決可能なのは分かった。ではどうすれば目の前の問題は解決するのか?それを具体的に教えて欲しい」と思っているのです。
ただそんなことを口にすると「不信仰!」と言われるのを恐れて口をつぐんでいます。
それで教会に通い始めて何年も経っているにもも拘らず、相変わらず問題は山積みのままなのです。

④人々の必要とキリスト教のメッセージ

人々が求めているのは、日々の生活の中で起きる問題をどのようにして解決すれば良いのかということです。
そしてキリスト教が提供できることは、聖書の教えと問題解決の方法をセットで提供することです。

二千年前のキリスト教、すなわち初代教会にあって、現代教会にないものの一つが、この問題解決と御言葉(みことば→聖書の言葉)をセットにして人々に届ける能力です。

一旦失った能力をどうすれば回復することが出来るでしょうか?
それは苦労して学び取るしかありません。
悩んでいる人の悩みに耳を傾け、悲しむ人の嘆きに辛抱強く付き合うことが必要です。
悩んでいる人を見て「いつまで悩んでいるのか?そんなことではいけない」と叱咤激励(しったげきれい)するようではいけません。
悲しんでいる人に「主にしっかり聞いていただきなさい」とかなんとか言って自分の責任から逃げてしまう人に申し上げたい。
「お前が聴いてやれよ!」(笑)

⑤初代教会と現代教会

パウロはイエスに直接お会いしたことがありませんし、当然のことながらイエスから直接に薫陶(くんとう)を受けたわけでもありません。
しかしそれでもパウロの中には、キリスト教の十全な形が宿っていました。

ですから次のように言うことが可能です。
もしパウロに可能であったなら、私たちにも可能です。
キリスト教の十全さをまず私たちが生きようではありませんか。
そしてこの十全なキリスト教を人々に宣べ伝えようではありませんか。
私たちにはそのような祝福を受ける権利があり、同時にそのようなキリスト教を宣べ伝えなければならない責務があります。

◎平安と祝福を祈っています。

コメント

  1. マッキー より:

    ありのパパさんへ

    お早うございます。
    ③の「正しい聖書釈義がされているのはよろしい」とありますが、残念ながら教会や説教者によっても、だいぶばらつきというよりレベルの違いがあるように思います。

    私が通っているペンテコステの教会では、説教の大半が証(牧師家族の自慢話と自分の業績の誇示)なんてこともありますし、同じ教団でも創世記1章1節から順番に説教している教会もあるようです。

    今では1日30分も祈っていない私が言うのもなんですが、説教者の資質、適性、準備はもちろん前提にありますが、「語られている言葉に聖霊の油注ぎがあるか?」が重要な事柄だとも思います。
    牧師、信徒、共に祈って聴き、祈って語りたいものですね。
    昔、説教者が「イエス様はあなたのことを愛していますよ」と言った途端に、隣に座っていた求道者が号泣したり、バス停のベンチに座っていた人に「イエス様はあなたが帰ってくるのを待っておられますよ」と言って教会案内を渡したら、その人が突然泣き出したことなどをふと思い出しました。

    • ありのパパ より:

      こんばんは、マッキーさん。
      コメントをありがとうございます。

      コメントで言われていることは大変興味深い内容ですので、このことに関する私の考えを2015年4月19日(日)のブログに記事として載せることにしました。

      どうぞお読みください。

  2. マッキー より:

    ありのパパさんへ

    お早うございます。
    ありのパパさんの「聖霊論」、「救済論」、「教会論」などアーメンしまくりです!

    肝腎の12ステップが、私の勉強不足、取り組み不足なのが私の痛いところですが…。

    事情があって問題教会に通わざるを得ない私のような者には、霊を養う上で健全で優れたキリスト教関係のブログに大いに助けられております。感謝します。

    日曜日の記事を楽しみにしております。

    • ありのパパ より:

      こんにちは、マッキーさん。
      コメントをありがとうございます。

      さて、褒め殺しですか(笑)。
      冗談はさておいて、日曜日の記事はマッキーさんだけを対象にしていません。
      キリスト信者一般を対象にしています。
      決して「私のことを言っている」とお受け取りになられませんように。

      あと12ステップのことですが、棚卸しに取りかかる前にステップ1を踏んでいることが必要です。
      自分は何に対して無力なのか?これがはっきりしていないと前に進むことは出来ません。
      12ステッププログラムは依存症(と疑似アルコホーリクと言われるAC)からの回復を目指すプログラムです。
      それ以外のものには効果がありません。

      マッキーさんのコメントをお読みして感じるのは、マッキーさんは「自分はだめだ。自分はだめだ」と言っているように感じるのですが、私からすれば「あなたのどこがダメなのか?立派じゃないか!」というものです。

      どうぞ今一度、正直な心になってご自分を振り返ってみられますようにとご助言申し上げます。

      • マッキー より:

        ありのパパさんへ

        お早うございます。御助言感謝します。

        私は褒められて伸びるタイプだと思うので、とてもありがたく感じます。

        妻や義母から、もっと働いて稼げ、もっと家族に仕えろ!!とプレッシャーを掛けられているように感じてしまうことが多いので(多分、私の気のせいだと思うのですが…)、あれ?今気付いたのですが、これって誤った見捨てられ不安の裏返しような…。

        • ありのパパ より:

          こんばんは、マッキーさん。
          コメントをありがとうございます。

          面白いジョークを聞かせていただき、感謝です(笑)。

          またコメントしてください。お待ちしています。

  3. ゆみ より:

    はじめまして。
    51にして、家族からの虐待を認識したものです。
    クリスチャンであります。
    神さまのみことばをしっかり吟味し、これから生きていこうと思いました。

    • ありのパパ より:

      こんにちは、ゆみさん。
      初めてのコメントをありがとうございます。

      これからもよろしくお願いします。