救いと聖霊に満たされることと

今日は皆さんとご一緒に『使徒の働き』のもう一つのテーマである「救いと聖霊に満たされること」ついて考えます。

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1.初代教会の誕生と聖霊の満たし

『さあ、わたしは、天のお父様が約束してくださった聖霊をあなたがたに送ります。あなたがたは、その聖霊を頂き、聖霊の力を与えられるまでは、エルサレムで祈っていなさい。』[ルカ24章49節]

・ペンテコステの聖霊経験は他の一般的な霊的経験とは別のもの

エマオの途上でイエスに語られて、心がうちに燃える経験をした弟子たちに対しても『聖霊の力が与えられるまではエルサレムで祈っていなさい』と命じられています。
このところから所謂一般的な「心が燃えた」とか「霊調が高まった」などの経験とは全く異なる唯一無二の、他の霊的経験では代えることの出来ないものであることが分かります。

2.世界宣教のスタートと聖霊の満たし

『聖霊があなたがたの上に降る時、あなたがたはわたしの死と復活の証人として、それを他の人々に語る力が与えられます。』[1章8節]

上記の聖書箇所からは、聖霊の力とは結局のところ福音を人々に語る力であるとお分かりになるでしょう。
ペンテコステの日に聖霊が降ったとき、聖霊が舌のような形をしていたのは、神の約束を表しているのです。

神の命令が『エルサレムから始まってユダヤ、サマリヤ、さらに地の果てまで語り出さずにはおれなくなります。』であったことを思えば、一番初めの聖霊の降臨に外国語で福音を語るという象徴的な出来事が含まれていたのは当然のことであったと言うことが出来ます。

3.聖霊の満たしと異邦人の救い

『神様、それはできません。』『神が潔めた物を、聖くないなどと考えてはいけません。』[使徒の働き10章14節、15節]

この聖書箇所はキリスト教史上初めてユダヤ人以外に福音が語られた物語の初めの方に出てくる部分です。
ペテロは異邦人は汚れた者であるという間違った考えを持っていました。
しかし、この考えは当時のユダヤ人が持っていた一般的な考えでもありました。
この間違った偏見を正すために、神はペテロに幻を見せました。
その時の神とのやりとりが上記の聖書箇所になります。

「異邦人は汚い」という考えに凝り固まったユダヤ人の頭をほぐしたのは、異邦人のコルネリオたちが異言を語ったからでした。
その結果、ユダヤ人クリスチャンも「『神は命に至る悔い改めを、ユダヤ人以外のすべての人にもお与えになったのですね』と言って、神をあがめた」のでした。

もしコルネリオたちが聖霊を受けたとき、異言を語らなかったとしたら何がキリスト教歴史に起きていたでしょうか?
いいえ、何が起きなかったでしょうかと言い換えることが必要かもしれません。

〇異言が、ユダヤ人以外の異邦人への福音伝道の突破口となったのです。

4.救いと聖霊の満たしの経験

『信じた時、聖霊を受けましたか?』[使徒19章2節]
このところでは、パウロが人々を救いっぱなしにしないで、聖霊に満たされるところまで丁寧に導いているのを見ることができます。

現代のクリスチャンたちは、パウロの質問にどのように答えるでしょうか?
「信じて救われたことは聖霊を受けたことと同意義です。」
「聖霊を受けるのは、歴史的に一度限りのことであり、後の時代の人々が期待すべきことではありません。」
様々な答えがあるでしょう。
しかしそれらの答えは果たしてパウロを納得させることが出来るでしょうか?
いいえ、決して出来ないと思います。

また一方ではこのように言うクリスチャンもおられるでしょう。
「はい、異言の賜物をいただきました」
パウロはあきれたように「私が聞いているのは異言の賜物をいただいたかどうかではない。聖霊を受けたかどうかを聞いているのだ」と言うかもしれません。

5.聖霊の満たしの経験には外的印が伴う

聖霊が降(くだ)ったということが誰の目にも明らかであったのは、外的な印があったからにほかなりません。
この場合で言えば「すると彼らは特別な言葉を語ったり、神の御心やご計画を語ったりした」のです。
それによって周りにいた者たちに、この人たちが聖霊を受けたことが分かったのです。

もしこれがホーリネス派が教える「聖霊の証(あかし)」の教理なら、「私は心のうちで確かに聖霊に満たされたのを感じました」と言うでしょう。
しかしこれだと他の人には聖霊に満たされたかどうかが全然分かりません。

結論として次の三つのことを言うことが出来ます。

①救いと聖霊の満たしはセットになっており、切り離すことは出来ない。

パウロを初めとした初代教会の人々は、この真理が失われないように細心の注意を払っていたのを見ることができます。

②信じた後に、必ず聖霊に満たされる経験をしなければならない。

これなしには十全なキリスト教信仰にあずかっているとは言えません。

➂聖霊に満たされる経験には必ず外的な印が伴う。

その印はその時代の教会にとって大変重要な仕事をします。
聖書の時代にはこの印があったからこそ、異邦人も救われるのだということをユダヤ人主体の教会も理解することが出来ました。
現代の教会にとってはキリスト教には超自然的要素があるのだということを人々に理解させる働きがあります。

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