パウロが捕らえられた真の理由、それは律法主義

新約聖書の『使徒の働き』には二つの主題があると、ありのパパは考えています。
一つは救いと律法の関係であり、もう一つは救いと聖霊に満たされることの関係です。
今日は皆さんとご一緒に、救いと律法の関係について考えます。

        

1.エルサレム教会がパウロの味方をしなかった理由

「彼(パウロ)は、できれば五旬節の日にはエルサレムに着いていたかったので旅を急いでいた」[使徒20章16節]
この五旬節は、あの初めて聖霊が降臨した五旬節から何回目の五旬節だったのでしょうか?
聖書にはそれについて詳細に記録されていませんので不明です。

しかし聖霊がパウロに明らかに語られたのは「エルサレムに行くなら、そこで捕らえられる」ということです。
この情報は教会に広く行き渡っていたようです。
エペソの信者たちも知っていたようですし、ユダヤから来た預言者もエルサレムに行くならば、パウロは捕らえられると預言しました。
パウロの伝道旅行の同行者たちも、そのように考えていたことが聖書に記されています。

ここでちょっと考えてみると、何万人もの信者を抱える歴史上最大級の教会であったエルサレム教会の存在を考えるなら、このような状況は考えにくいと言わなければなりません。

一般的に言えば、何万人もの信者がいる教会は有力な圧力団体でもありますから、パウロが官憲に捕らえられることに対する抑止力になるはずです。
そうであるにもかかわらず誰も彼もが「エルサレムに行ってはならない」と言うのです。

なぜでしょうか?
ありのパパの推測は、この当時のエルサレム教会は律法主義が支配的であり、だれもその圧力に抗することが出来ないほど圧倒的な勢力を持っていたのではないかというものです。

        

2.パウロのただ一つの目的とは?

パウロ以外の人たちは当然のことながらパウロの身の安全を心配しました。
しかしパウロには別の目的があったようです。
少なくともパウロには無駄死にする気はなく、そのためなら死んでも良いと思える目的があったようです。
だからこそパウロはこう述べました。
『私は自分の走るべき行程を終えて、主イエス様から受けた神様の恵みの福音をはっきり宣べ伝える任務を果たすためなら、自分の命など、どうなっても構わないと思っています。』
パウロの殉教の目的はただ一つ。
それは神から委ねられた福音の内容をしっかりと保持することと、その福音を宣べ伝えることです。
この目的のために「エルサレムに行って死ぬ」と言っているのです。

        

3.エルサレム教会と律法主義クリスチャン

エルサレム教会の指導者たちがパウロを守ろうとしなかった理由が明らかになります。
彼らは教会の中のいる律法を今も熱心に守る人々を恐れていたのです。
その理由は、彼らの数がごく少数ではなく何万人もいたことによるのでしょう。
しかし彼らが教会の中で猛威を振るい、教会の指導者も彼らを恐れていたというのは、当然のことながら神の御心にかなっているとは言えません。

牧師のヤコブを初め長老たちは、彼らに対して徹底して融和的姿勢を取るようにパウロに懇願(こんがん)します。
パウロもその要請を受け入れますが、しかしそのような融和的姿勢というものは、いつの時代であっても敵の凶暴さの故にやがて木っ端(こっぱ)みじんに吹き飛んでしまうものです。

        

4.律法主義とはなにか?

ここで律法主義とは何かを考えてみたいと思います。
律法主義とは言葉通り、神の戒めをことごとく守ることによって救いに到達しようとする考えです。
この律法を与えたのは神ご自身ですから、元はと言えば律法主義の創設者は神であるとも言えます。
しかし律法が与えられた真の目的は別のところにありました。
それは律法を守ることによっては誰一人として救いに到達する人はいないということを、私たちが徹底して知ることにありました。

しかしユダヤ人は律法を守ることが出来ると考えました。
神の御前では、それ自体が罪なのです。
父なる神によってイエスがこの社会に与えられたとき、律法を守ることによっては誰一人として救いに到達し得ないと悟った人々は、こぞってイエスをキリストであると信じました。
このキリストこそ、神が人類のために与えられた新しい救いへの道だったのです。
この新しい道とは、律法を守ることによって救いに到達しようとするのではなく、信仰によって救いに到達する道です。

律法とは「達成できた」「達成できなかった」という二元の価値観です。
しかし信仰による救いは、信じる者の内実を問題にせず、ただ信じることによって救いに到達できるとする価値観です。

5.信じるだけで救われる理由

ではなぜ信じるだけでよいのでしょうか?
それは信じる対象、すなわちイエス・キリストが私たちのすべての罪を担って十字架に掛かって下さったので、私たちの罪はすでに処置済みとなっているからです。
だ・か・ら、そのイエスを信じるだけで私たちは救われることが出来るのです。

もう一度、今日の聖書箇所に戻ります。
なぜ彼らは救われたにも係わらず、律法を守り続けたのでしょうか?
また教会の指導者たちは、なぜ彼らに対して「あなたがたは既に救われたのだから律法を守る必要はない」という指導をしなかったのでしょうか?

ここに人間の弱さと愚かしさがあります。
しかし神はその弱さや愚かしさをお見逃しになさいません。
彼らの選択の結果として、エルサレム教会はキリスト教歴史の中から消え去りましたし、イスラエルという国家さえ滅びなければなりませんでした。

◎これを他人事としてはなりません。
世界中で一番ユダヤ人に似ていると言われる民族はどれかご存じですか?
そうです。私たち日本人です(笑)。
戦前の日本国民の選択、また最近における安部政権の振る舞いに対する日本国民やマスコミの対応を見ていると、今日の聖書箇所におけるユダヤ人信者を恐れる教会指導者の弱腰が重なって見えてしまうというのは言い過ぎでしょうか?
平安と祝福を祈っています。

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