「自分なりに理解した神」を考えてみる

オックスフォード運動に属していた友人から、霊的体験がアルコール依存症からの回復のカギであることを教えられたビル・Wでした。
しかし彼はどうしてもキリスト教の神概念を受け入れることが出来ませんでした。
ありのパパなどには、これは到底理解できないことです。
いつもこの場面になるたびにお腹の中で「なんでやねん!素直に信じさせていただけば良いではないか。なぜ信じますと言えないのか?」と思ってしまいます。

しかしクリスチャンが考える以上に未信者にとってキリスト教の神概念を受け入れるのは困難であるようです。
ビルの友人が思い余って言った言葉「自分なりに理解した神でいいんだ」が突破口となり、どのような神を信じるかについて他人にとやかく言われない保証ができました。
このことによって、AAは全世界に向けて、また全ての人に向けて扉を開くことが出来たと言われています。

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1.子供っぽい神概念

子供っぽい未熟さから、自分の信じる神が小さな神となってしまう危険が誰にも(クリスチャンにも)あります。

教会である青年が「Aさんは雨が降るように祈り、Bさんは晴れるように祈ったとします。では神はどちらの祈りをかなえられるのでしょうか?」と質問したことがありました。
このような質問が出てくる背景には、未熟な神概念という問題があります。

(皆さんなら、この青年にどのようにお答えになりますか?どうぞコメント欄から教えてください。)

また、アディクション(嗜癖:しへき)を持っている人の神概念も未熟なものである可能性があります。

私たちは回復が進むにしたがって、神概念も成長させていく必要があります。
これは大変重要なことです。

2.現代キリスト教の問題点

決心することは重要ですが、もしその後に行動が続かないとすれば結果はいつまでも現れることはありません。
ここらへんが福音主義キリスト教を含む既存のキリスト教の陥りやすい過ちではないかと、ありのパパは考えています。

キリスト教に入信したとき、次は何かをすれば良いのかと尋ねると「成長していくためには集会に出席し、聖書を読み、祈り、伝道と奉仕に励み、献金する」ことですと言われました。
これを恩寵(おんちょう)の手段といいます。

今は明確に理解することが出来ますが、これらの徳目は皆良いものではありますが、だからと言ってこれらをなせば成長するというわけではありません。
これらのものは成長目的のために行うべきものではなく、そうせざるを得ないからやっているというべきものです。
奉仕に熱心なキリスト者であっても、霊的に成熟していない場合があるのは、このような理由からです。

12ステッププログラムの優れてる点は、この決心と回復するための行動が絶妙に配置されているところにあります。

3.障害を見つけて取り除く。

①「力」がどこにあるか信じた(ステップ1・2)

皆が一様に同じ敬虔の修行に励むのではなく、まず自分の特有の問題は何かを明らかにします。
AさんはBさんとは別の問題を抱えているのであり、CさんはDさんとは全く別の領域の問題で悩んでいるかもしれないのです。
ですからヨーイドンで一齊に同じことを始めるのではなく、一人一人丁寧に自分のカルテに従って回復の道を歩む必要があります。
ステップ1で必要なことは自分の問題が何であるかを認め、問題の本質は自分が無力であるのを認めることです。

②決心した(意志と生き方を「力」に委ねる。ステップ3)

「自分を超えた大きな力」が自分を健康な心に戻してくれると信じるようになった私たちは、即座に次のステップに移ります。
それは自分の意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮に委ねる決心です。
これは「委ねます」と言って、終わるようなものではありません。
「委ねます」と言ったら、委ねる行動を始めなければなりません。
その行動が、後に続くステップの4と5の棚卸しであり、6と7の短所を神に取り除いてもらうことであり、8と9の埋め合わせの人生を歩むことです。

◎平安と祝福を祈っています。

コメント

  1. マッキー より:

    ありのパパさんへ

    お早うございます。
    Aさん、Bさん、共に祈る理由や動機が問われると思います。

    自分の願い通りに天候を操作しようとしているのであれば、神様を自分に従わせようという間違った姿勢とも思いますが、他の人や教会のためにへりくだって祈り求めるなら、神様は願いを聞いて下さりますが、叶えて下さるとは限らないと思います。

    結果的にどちらかの祈りが叶えられたように(晴れるか、雨が降るか)人の側からは見えるのでしょうが、祈る理由や動機が不健全なものであれば、どちらの祈りも叶えられたことにはならないですし、祈る理由や動機が神様に受け入れられるものであれば、祈りが叶えられたかどうかは、あまり重要なことではなくなると思います。
    (クレドの祈り)

    なんか、ガラにもなく真面目に書いてしまいました。

    • ありのパパ より:

      こんにちは、マッキーさん。
      コメントをありがとうございます。

      はじめにお詫びします。
      今日の問題は引っ掛け問題でした。
      こんなに真剣に答えていただけることを予想していませんでした。

      そうですね。仰る通りであると思います。
      前回のビリーグラハム大会のとき、天気予報は雨だったのですが、私は天のお父様は必ず晴れを与えてくださると信じました。
      (その時、私は客商売の仕事をしていたのですが、お客様から「明日は雨だってね」と言われて「いいえ、明日は晴れます」と答えてしまい、お客様が「なぜお前に明日の天気が分かるのか!?」と大激怒されたのは懐かしい思い出です(笑)。)

      またコメントしてください。お待ちしています。

  2. マッキー より:

    ありのパパさん、こんばんは。

    すっかり引っ掛けられてしまいました。(泣)

    ただ、神様に対する姿勢、祈る理由や動機について考えさせられました。

    いつもコメントが、主題からちょっとずれてますね。ごめんなさい。

    • ありのパパ より:

      こんばんは、マッキーさん。
      コメントをありがとうございます。

      申し訳ありませんでした。

      しかし祈る理由や動機について考える切っ掛けとなったのなら、それもまた良しと言うことでしょうか(笑)。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  3. 冬猫 より:

    祈りがぶつかるように見えるとき、また、答えが叶うか、叶わないかに囚われるとき、神さまはいつも私たちの想像を遥かに越えた予想外の答えをくださいます。

    Aですか?Bですか?と問いかければ、Hだよくらいかけ離れていて笑っちゃいます。
    でも、それがどう考えても最善なのです。

    なのでAさんとBさんに与えられる答えはひょっとしたら曇りかな?と思いました。

    傘を持つ煩わしさはなく、日焼けの心配もなく、爽やかな風が吹く過ごしやすい1日になったのではないでしょうか。

    (スミマセンどれで登録してたか忘れて、アドレスいつもと違いましたら申し訳ないです)

    • ありのパパ より:

      こんにちは、冬猫さん。
      コメントをありがとうございます。

      そうですね。その通りであると私も思います。
      神への信頼があるとき、過去には感謝が、未来には希望があります。
      自分が自分の主であるとき、過去には恨みをもち、未来には恐れを感じます。
      今日一日だけ、恨みに替えて感謝を、恐れに替えて希望をと、自分のために祈ります。

      またコメントしてください。お待ちしています。
      (アドレスは合っていました。)