聖霊のバプテスマとは何か?

今日は皆さんとご一緒に、聖霊のバプテスマとは何であるのかを考えてみます。

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①ペンテコステの聖霊経験は喜びに満たされる事とは別物

『さあ、わたしは、天のお父様が約束してくださった聖霊をあなたがたに送ります。あなたがたは、その聖霊を頂き、聖霊の力を与えられるまでは、エルサレムで祈っていなさい。』[ルカ24章49節]

ルカ福音書の最後の部分には「弟子たちは喜びに満たされて日々、主を賛美していた」とあります。
これは人間的に見るならば「準備OK!」ということです。
しかし、このような状態になってもなおイエスは『エルサレムに留まっていなさい』と命じられました。

これは弟子たちにとっては、とてもじれったいことだったでしょう。
なぜなら、訳の分からぬ「聖霊の満たし」より、ちゃっちゃっと宣教すれば良いではないかと考えたかもしれないからです。

しかしお弟子たちは神からの約束の賜物(たまもの⇨プレゼント)を頂くまで、忍耐強く祈り続けました。
その理由はイエスが捕らわれた時の自分たちの弱さと失敗を思い出し、イエスのご命令に従わざるを得なかったからではないでしょうか?

自分の弱さを知っているか否かが、私たちにも問われているように思います。

②聖霊のバプテスマは心が内に燃える経験とは別のもの

エマオの途上でイエスに語られて、心がうちに燃える経験をした弟子たちに対しても他のすべての弟子に対してと同じように『聖霊の力が与えられるまではエルサレムで祈っていなさい』と命じられています。

このことから聖霊のバプテスマの経験が、一般的な「心が燃えた」とか「霊調が高まった」などの経験とは全く異なる唯一無二の、他の霊的経験では代えることの出来ないものであることが分かります。

エマオの途上でイエスに語っていただき、心が内に燃えた弟子たちは「心が内に燃えたあの経験こそ聖霊のバプテスマの経験だ!」とは決して言いませんでした。

しかし現代の教会では何と多くの人々が単なる霊的興奮を聖霊のバプテスマの代替物としていることでしょうか。
この点でケズィック運動などはナンでもカンでも聖霊経験にしてしまう傾向をありのパパは感じています。
もっともケズィック運動はホーリネス運動に影響を受けたカルバン主義神学の教会によって始められた実践を強調する運動です。
その故に体験は二の次、実践こそが大事という考えなのかもしれません。
しかし主イエスはそのようなお考えではありませんでした。

➂初代教会の働き

『聖霊があなたがたの上に降る時、あなたがたはわたしの死と復活の証人として、それを他の人々に語る力が与えられます。』

聖霊の力とはつまるところ、福音を人々に語る力ということになります。

ペンテコステの日に聖霊が降ったとき、聖霊が舌のような形をしていたのは、それを表しているのです。
神の命令が『エルサレムから始まってユダヤ、サマリヤ、さらに地の果てまで語り出さずにはおれなくなります。』であったことを思えば、最初の聖霊のバプテスマの際に、外国語で福音を語るという象徴的な出来事が伴っていたのは当然のことであったと言うことができます。

使徒の働き4章29節~31節では、信者たちは御言葉を大胆に語らせて下さいと祈っています。
これは1章9節で「福音を語る力」と言われているものと同一の力を再び求めています。
最初の聖霊のバプテスマの時との違いは、彼らが聖霊に満たされること以外に、癒(いや)しの業(わざ)を行うことと、奇跡を行うことの権能(けんのう)を求めていることです。

これは多分、足なえの男の奇跡によって多くの人が救われたのを見て、福音宣教のためには癒しと奇跡が有効な道具になると悟ったからかもしれません。
彼らが切迫感をもって祈っているところを見ると、これなしには福音宣教を成し遂げることが不可能であると考えていたように思われます。

◎現代に生きるクリスチャンである私たちは聖霊のバプテスマを何のために求めているでしょうか?
御言葉を人々に語るためでしょうか?
それとも自分には必要ないと思っているでしょうか?
静まって自分の心を省みたいものです。

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コメント

  1. マッキー より:

    ありのパパさんへ

    お早うございます。
    いろんな意見のあるテーマに、直球ですね。
    ありのパパさんの「聖霊のバプテスマ」についての記事に大賛成です。
    福音宣教のために、御言葉を語る力と与えられた賜物を正しく行使する力が与えられると思います。

    私が通っている教会の教団の教理に「聖霊のバプテスマには、異言を伴うしるしがある」というのがあり、その事をかなり強調しますが、異言の有無より、どのように福音宣教の業が前進したのか、が大切な事だと思います。

    続編で、与えられた「聖霊のバプテスマ」を維持、継続する秘訣の記事を期待しています。
    私が用いられている時期となんちゃってクリスチャンの振れ幅が大きいので、厚かましいお願いですが、よろしくお願いいたします。

    • ありのパパ より:

      こんにちは、マッキーさん
      コメントをありがとうございます。

      わたしも異言を強調しますが、ただ今日の聖書箇所には異言を強調すべき部分が含まれていなかったので、異言の問題はスルーしました。

      マッキーさんの仰ることは良く分かります。
      クリスチャンは聖霊に満たされるまでは、満たされることを熱心に求め、満たされた後は再び満たされることを求めます。
      しかし再び満たされるとは、今現在満たされていないことを現しています。
      ここから明らかなことは私たちが知るべきことは満たされ続けることについてです。

      ただ今、その記事を書いている最中です。
      しばらくお待ちください。

      またコメントしてください。お待ちしています。

    • ありのパパ より:

      こんにちは、マッキーさん。
      ありのパパです。

      お約束の「どうしたら聖霊に満たされ続けることが出来るか?」を2015/04/05(日)にブログ記事として公開します。
      どうぞ、お読みください。

      またコメントしてください。お待ちしています。