私たちの選択と神の予知。命の秘訣は神に従うこと。

(ルカ19章41節~44節)

新約聖書ルカ福音書には次のことが記されています。
イエスが弟子をつれて、エルサレムに入城しようとする直前、イエスはエルサレムを見て涙を流されたという記事です。

このような行動は一緒にいたお弟子さんたちに奇異な印象を与えたでしょう。
なぜなら、この時期のお弟子さんたちはイエスがイスラエルを政治的に復興してくださると考えていた節があるからです。

我らの政治的リーダーが十字架に掛かって死ぬということさえ受け入れられないのに、あまつさえ自分たちの国の首都が滅びるだと!?という具合です。

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1.選んだ結果を引き受けることになる

二千年前のイスラエルはイエスを救い主と信じることを拒みました。
その結果として、国が滅びるという結果を受取ることになりました。
このような聖書の記事を単なる昔話として捉えてはなりません。
なぜならこのようなことは、どの国にも起こりうることだからです。

我が国にも戦前起こりました。
関東大震災が起きたとき、世論は「これは行きすぎた民主化が神の怒りを引き起こしたのだ」と受け止め、大正デモクラシーとして花開いた民主主義を根絶やしにする方向へともっていきました。
もちろんこの場合の「神」とは天地万物を造られた唯一の神ではなく、日本古来の宗教である神道の神を指しています。

あれほど民主主義の花開いた大正時代を経験したにもかかわらず、時代の流れは神道原理主義支配へと向かっていきます。
天皇が現人神(あらひとがみ⇨生きている神様)とされ、キリスト教会は弾圧されました。
この日本という国家が選び取ったことの結果として、日中戦争から始まり太平洋戦争へと突き進んで行った15年戦争の徹底的な敗戦があります。

2.人間の予想と神のご計画は異なる

イエスのこの預言の通り、西暦70年にエルサレムはローマ軍によって包囲され滅ぼされます。
イエスが十字架に掛けられたのが西暦28年頃だと言われていますから、エルサレム滅亡の42年前にこの事実を知っておられたことになります。
そしてただ知っていただけでなく、その故に涙を流されたということは、どれだけリアリティーをもってこの事実を受け止めておられたかということの現れです。

この後には十字架と復活によって人類の救いは完成し、ペンテコステの出来事によって教会が誕生し、全世界への宣教に向けて動き出します。
さらにエルサレムだけでも何万人というユダヤ人がキリスト教信仰に入りましたから、人間的に見るならば(現代の福音派的視点で見るならばと言い換えてもよいでしょう)「このまま行けば地上天国が出来るんじゃね?」と考えてしまうのも無理からぬことです。

しかしイエスはそうではありませんでした。
あれほど興隆を誇ったエルサレム教会は律法主義へと落ちていきます。
(それでもエルサレム陥落の直前に教会内にいた預言者の預言によってエルサレム滅亡を逃れることができたと言い伝えられています。)
イエスはそのことをご存じであり、その結末をも予(あらがじ)め知っておられました。
(あるキリスト教会はこれを間違って『予定』といいますが、そうではありません。単に知っておられたのに過ぎないので『予知』というのが正しい呼び方です)

もし、エルサレム在住のユダヤ人のほとんど全員がキリスト者となっていたら、歴史の出来事は代わっていたでしょうか?
それは神以外に誰も分からないことです。
この分からないことを神に委ねることを信仰というのではないでしょうか。

3.神に従うことを選び取る

人間には選択する(選ぶ)権利があります。
この権利を神は絶対的に尊重してくださいます。
しかし、その選択の結果を私たちは引き受けることになります。
よく私たちは「神が憐れみ深い方なら、なぜこの状況を何とかしてくださらないのか?」と言います。
しかしそのように言っている時は、その前になした自分の決断を忘れているか、棚に上げているのです。

「自己責任論」の致命的な間違いは神の存在を無視していることです。
聖書が教える責任論は、自分の選択する権利を『神に従う道』を選ぶとることに使うことです。
そうしたら私たちがどんなに愚かであっても失敗したとしても、神は無条件の祝福をもって私たちを包んでくださいます。

◎神の祝福を受ける秘訣、それは神に従う道を自覚的に選び取ることにあるようです。
平安と祝福を祈っています。

コメント

  1. マッキー より:

    ありのパパさんへ

    お早うございます。
    「神の絶対的主権」と「人の選択責任」、人間の小さな頭では、両方バランス良く信じ、受け入れるのは、時として難しいですね。
    どちらか一方に片寄らないことが信仰的に成熟した姿勢とも思いますが、一抹の焦れったさ、中途半端な気持ちも残ってしまいます。

    読後、何故かシリヤで散った後藤 健二さんのことを思い出しました。

    クリスチャンでも「自己責任」や「聖書的正論」であの方を批判する方もおられましたが、そういう方々はDV夫と離婚した人に「私は離婚を憎む」と神様は言われます、と言ったり、親に虐待された人向かってに「父と母を敬え」と聖書に書いてあります、と平気で言えるような人々で、滅んで当然のこの地上に、なんでイエス様が来て下さったか、分かりにくい方々なのだろうな、ふと、その様に思いました。

    • ありのパパ より:

      こんばんは、マッキーさん。
      コメントをありがとうございます。

      神の愛はどこに現れるかと言えば、滅んで当然の者の所にやってきてくださり、救いの恵みを備えてくださるところに現されます。
      多くの人は「そこがキリスト教の甘いところなんだよ」とうそぶきますが、この話にはまだ続きがあります。
      それは憐れみのない者に対する神の裁きは仮借(かしゃく)のない裁きであるということです。
      そういう意味では、キリスト教はちっとも甘い宗教なんかではありませんね(笑)。

      またコメントしてください。お待ちしています。