自分が変われば相手も変わる?あり得ないパターンです。

よく言われることに「自分が変われば相手も変わる」というのがあります。
本当にその通りでしょうか?
今日は皆さんと御一緒にこの問題を考えてみます。

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①問題の本質は「変われない自分を認め受け入れること」

何を変えることが出来、何を変えることが出来ないのかを切り分けておくことは生命的に重要なことです。
なぜなら変えることが出来ないものを変えようとする努力は徒労に終わるからです。

12ステップグループで使われる「平安の祈り」には「神様、私にお与えください。自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを。変えられるものは変えていく勇気を。そして二つのものを見分ける賢さを」とあります。

②キリスト教の教えは自分で自分を救うことができない私たちに代わって神の御子が救いを成し遂げてくださったというもの

救いとか救われるというと天国に行くことだけに焦点が合ってしまいがちです。
しかし救いとは私たちが心の中で「このような自分になれれば良いのに」と願っていることの実現でもあるのです。

このことに疑義を唱える方もおられるでしょう。
しかし言い方を変えるなら、たとえば「きよい人になりたい」とか「罪に負けない人になりたい」であれば、同意なさるのではないでしょうか。

多くのクリスチャンはキリスト教の核心的な教えである信仰義認の教えを頭の理解では受け入れます。
しかし入信後は、せっせと我力によって成長に励むようになります。
そして心のどこかで「これは何かがおかしい」と訝(いぶか)しんでいるのです。
しかしおかしいもなにも自分で自分は変えられないと納得して信仰に入ったのに、それにもかかわらず入信後にいけしゃあしゃあと何食わぬ顔をして我力で成長に励もうとすることこそ問題おおありのコンコンチキなのです。

③12ステップの第一ステップは自分の無力を認めること

それが何であったとしても(ある人にはアルコール、ありのパパは癇癪持ち)無力を認めざるを得ないものが何かしらあるのではないでしょうか。
「あら、私には何もないわ」と言う方がおられたら、まずご家族にご意見をお伺いしたいものです。
そうしたらご家族の方は「よく言うよ!」と仰るのではないでしょうか(笑)。

④変わろうとすることが問題解決の最大の障害

ここまで見てきてすでにお分かりであるように、我力(がりき)で変わろうとすることが解決を妨げている最大の鍵なのです。
このように言うと必ず「我力で変わろうとすることが問題なのであって変わろうとすること自体は良いことだよね?」と仰る方が出てきます。
しかしそうではありません。
なぜなら我力で変わろうとする意志が止むことが、まず問題解決の第一歩となるからです。

その問題を棚上げにしたままで変わろうとする努力を継続することは真の成長と回復にとって自殺行為です。
人生をどぶに捨てかねない無謀(むぼう)な行いであると言わなければなりません。

⑤自分も変わるからさぁ~、お前も変われよ!

これは魂胆が見え見えです。
夫婦カウンセリングなどでお話をお伺いしていると案外このパターンが多いのに気づきます。
お子さんの問題でもお母さんがたが「私が変われば子供も変わるんですよね」と言われると「変わるわけないだろ!」と心の中で突っ込みを入れることがあります。

こんな見えすいた安っぽい取引に応じる人はどこにもいません。
しかし見えすいた失敗するとわかっているやり口を何度でもやり、今度こそはうまく行くに違いないと思い込んでいるのが私たちなのです。

⑥(正しい道は)自分も変われない。だから変われない自分を受け入れる。そして変われない隣人をもありのままで受け入れる

このような生き方を自己受容・他者受容と言います。
自分をありのままで受け入れている分だけ、人様をありのままで受け入れることができます。
たとえば自分自身を50しか受け入れていないのに、他者を100受け入れようとすると、足りない分をどっかから持ってこなければなりません。
これを演じると言います。
演じている他者受容はバレバレです(笑)。
決して人の心を打つことはありませんし、その人を変えることなど到底できません。

逆説的な言い方になりますが、変われない自分を受け入れたときにだけ自分は変わることができ、「変わらなくて良い」と他者を受け入れたときにだけ他者を変えることができます。

「ふ~ん、わかった。やってみる」と思ったそこのあなた、お芝居ではダメですよ!(笑)

◎二千年前にすでにキリストが十字架の上で、私たちが自分で自分を変えようとしなくても良いようにしてくださいました。
この十字架に示された神の意志を正しく受け取らせていただきたいものです。
平安と祝福を祈っています。

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コメント

  1. しん より:

    ありのパパさん、いつもブログありがとうございます。
    生きる糧になっております。
    今までの私は、自分が変わるからどうか受け入れてください、愛してくださいとやっていたように感じます。
    その結果、無理やり自分を曲げて演じた自分で受け入れてもらおうとするので、その場はよいのですが、しばらくすると化けの皮(笑)がはがれてしまったり、自分を曲げているので怒りがフツフツとふきでたりしていました。

    「二千年前にすでにキリストが十字架の上で、私たちが自分で自分を変えようとしなくても良いようにしてくださいました。」
    教会には通っていましたが、これは聞いたことがありませんでした。
    これは幸せな知らせ、福音ですね。
    やっと福音の意味がわかりました。

    • ありのパパ より:

      こんにちは、しんさん。
      コメントをありがとうございます。
      いつもお読みくださり、本当に本当にありがとうございます。

      「化けの皮」とは良い表現ですね。にやっとしてしまいました。
      教会の宣教に関してもイエス様が関西人なら「何もしなくても良いから、邪魔だけせんといて」と言われているように思います。
      それを私たちの側で「邪魔やと思いますけど、なんかお手伝いさせてくれませんか?」とお願いしているのがクリスチャンの伝道の業であると考えます。

      またコメントしてください。お待ちしています。