婦人は子供を育てることによって救いが全うされるとは?

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1.聖書本来の意味を知ることの大切さ。

新約聖書のテモテへの手紙2章15節にはこのように書かれています。
「女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」(新改訳聖書)

a.新改訳聖書は原文を直訳するという翻訳原則を採用しています。

ヤフー知恵袋では「子を産むことによって救われるとあるが、キリスト教ではイエスを信じる信仰以外に救われる道があるのか?」というトンチンカンな質問がされていました。
それに対しての答えもまた的外れなものでした。

しかしこの箇所を文字通り読んでしまうと、そのような疑問が出てくるのは当然のことです。
聖書は聖書によって解釈するというのが大原則ですが、聖書の一部を聖書以外の思想によって解釈してしまうと異端の教えが発生することになります。
これの典型的な例がセカンドチャンスという第二の救いを説く教えです。

b.聖書を意訳(説明訳とも言います)しているリビングバイブルでは、さすがにその辺に気を使って訳出しています。

「女が慎み深く、信仰と愛ときよさを持って生活するなら、そのたましいは救われます。」(リビングバイブル3版)

しかしこの訳文では(ありのパパが読んでも)「じゃぁ、男はどうなんだよ。慎み深さや信仰・愛・聖さは男性にこそ必要なものではないか」とごく自然に思えてしまいます。
第一、この訳文では慎み深さなどの人格的徳を持つことが救いの条件になってしまっています。
これは聖書全体を通して明らかな教えである信仰義認の教えに反していますから、適切な訳文ということは出来ません。

c.原意に忠実に訳するという翻訳原則に基づいて訳された現代訳聖書は、どのような訳文になっているでしょうか。

「子供を産むという最も平凡な家庭生活の中に、女性の生きがいを見い出すことができる。そして救いは完成する」(現代訳聖書)

大分ましになってきました(笑)。
日本人にとって救いというと瞬間的なもの・体験的なものを連想しがちです。
しかし真の救いはそうではなく、イエスを信じることによって義と認めらる(義認)ことから始まって潔められつづける道を歩み(聖化)、ついに肉体が滅んで天に移されるとき永遠の衣を着せられます(栄化)。
この全体を指して救いと呼ぶのです。
現代に生きるクリスチャンたちは義認だけを救いであると受け止め、聖化や栄化を救いと対立的に受け止めてしまう傾向があります。
救いは一過性のものではなく、完成させるものであるのです。

2.この箇所の適用はどうなるでしょうか?

①アダルトチルドレンの婦人の子育ての苦労

アダルトチルドレンのご婦人がご自身の子育てについて悩んでおられるお話を聞かせていただくことがあります。
このようなときにありのパパが感じることは、機能不全家族の親たちとアダルトチルドレンの親には明確な違いがあるということです。

それは機能不全家族の親は虐待や養育放棄に対して罪悪感をもっていない。
あるのは言い訳と自己正当化だけです。
それに対してアダルトチルドレンの親御さんには、怒らないでおこうと思うのに怒ってしまうことに対する申し訳なさ、セルフイメージを引き下げないように育てようと思っているにもかかわらず、つい引き下げるような言葉を吐いてしまうことに対する自己嫌悪があります。

そのような嘆き・慟哭(どうこく)にも似たお話をお伺いしていて感じるのは「確かに聖書が言うように『婦人は子育てをすることによって救いが全うされる』というのは本当だな」ということです。
なぜなら男性の方々からはそのような悩みを聞くことはトンとないからです(笑)。
男性が鈍感なのか女性が敏感なのかは良く分かりません。
しかし神が女性を「産む性・育てる性」としてお造りになられているのは確かなようです。

②子育てによって救いが全うされるとは?

婦人の方々が子育てのことで悩んでおられる姿を拝見すると「もし他のことで苦労したとして、これほど深く自らの人間理解に切り込んでいくことが出来るだろうか?」とありのパパは思わざるを得ません。

真の聖化とは自己の改変です。
自己の改変とは自らの無力を認め、神に自分の人生を手放し、神の御心を知ることと、御心を行う力だけを求める人生を生きることです。
これは並大抵のことではありません。
誰だって楽をしたいし手を抜きたいのです。
しかし子供を持つ婦人は、子供のために命を捨てることを厭(いと)いません。
子どもがちゃんと育つために自分を変えていく覚悟があります。
これが聖書が言う「婦人は子育てをすることによって救いが完成される」ということの真意であると、ありのパパは理解しています。

3.聖書を時代の価値観に迎合させてはならない。

このような論を述べているときに気を付けなければならないことがあります。
それは一見聖書の解説をしているように見えて、実は自分(またはその時代)の価値観)を述べているのに過ぎないときがあるということです。

聖書の各記者は聖書が書かれた時代の価値観と異なっていることを聖書に残しました。
奴隷制度が一般的であった時代にパウロは奴隷制度を否定することも肯定することもせず、ただ「奴隷は奴隷の身分のままで留まっていなさい。しかし自由人になることが出来るならためらわず自由人になりなさい」と教えました。

このことから時代の価値観に対する聖書の考え方を知ることが出来ます。
それは教会が時代を改革していくことは教会の主な任務ではない。
しかし教会がその時代における(否定的な)価値観を積極的な意味で肯定することは決してないということです。
(キリスト教徒が社会運動家や政治家として社会改革に勤(いそ)しむということは大いにあり得べきことです。)

◎子育てで苦労している婦人の方々に申し上げたい。
あなたのそのご苦労はあなたの救いを完成させる道なのです。
この道を励まし合いながら共に歩んでいこうではありませんか!
平安と祝福を祈っています。

コメント

  1.  ミーチャ より:

    ペンテコステ派の者です。

    「婦人は子供を育てることによって救いが全うされる」の説明、励まされました。
    ある日の礼拝で「若い人々は結婚されるようお勧めします。
    女は子を産むことによって救われる」と語られ、会衆の中で適齢期を過ぎて未婚なのは私ともう一人の姉妹だけの状況で、背筋が凍るような思いでした。

    集会後も、他の信徒から少し心配されたような面持ちで挨拶をされました。
    多分私の顔も相当引きつっていたのだと思います。
    本当は先生に言葉の真意を確認したかったのですが、できませんでした。
    時代背景だとか文脈の中で御言葉が語られないと、聞くほうにとってはつらいことになりますね。

    ところで、ペンテコステ派と福音派とではまた違うのですね。
    こちらのブログをもっとしっかり読み進めていけば分かるのでしょうが、福音派かリベラルのどちらかだと認識していました。

    • ありのパパ より:

      こんばんは、ミーチャさん。
      はじめてのコメントをありがとうございます。

      大変でしたね。ご苦労をお察しいたします。
      聖書を誤りのない神の言葉と信じるなら、どうしても正しい解釈が必要になります。
      そうでないと「キチガイに刃物」状態になりますね。
      パウロは当該箇所を婦人信徒を励ますために書きましたが、間違った解釈をされると、同じ聖書箇所が婦人を傷つけてしまう箇所になってしまいます。

      ペンテコステ運動は福音派教会から生まれましたので、基本教理を福音派から受け継いでいます。
      ということでペンテコステ教会は福音主義ということになります。

      私は「福音派」と「福音主義」を使い分けています。
      福音派に属するのは根本主義キリスト教と福音主義キリスト教であり、福音主義に属するのは伝統的福音派教会とペンテコステ教会です。
      (なお、アメリカや日本のアッセンリブリー教団は福音派の団体に属していますので、「福音派に属している」という言い方も間違ってはいません)

      ほかにペンテコステ運動の影響を受けて伝統的福音派内における聖霊運動が「聖霊第三の波」運動、リベラル派とカトリックにおける聖霊運動が「カリスマ運動」ということになります。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  2. ミーチャ より:

    ありのパパさん、こんにちは。
    前回はまともな挨拶もせず、突然コメントしてしまって失礼いたしました。
    わかりやすい説明をありがとうございます。
    かれこれ20年以上教会生活を送っていながら、自由主義と福音主義があることを明確に認識したのがここ1年という浅学ぶりなのです。
    ただいま勉強中です。

    質問があります。
    私は教会で月に一度礼拝の司会をしています。
    4曲程度賛美リードをして、お祈りして献金のすすめまでをしたところで牧師先生に渡すのです。

    私の通う教会では、伝統的に「手を挙げて賛美しなさい」といわれます。
    それは神への降参であり、手を上げると恵まれるから、という説明なのですが、私は未だに抵抗感があります。
    会衆を見ていると、必ずしも霊的だったり教会のはたらきの中心メンバーが挙げているわけではなく、いわゆる「それほど熱心でない信徒さん」でも感情が高ぶってオーバーなほどに両手を挙げる人もいます。
    司会のときは仕方ないので心の中で「サビのところで挙げよう。せーの」と挙げて、Aメロでは降ろすようにします。
    会衆席に座っている時は、まず挙げません。
    なので、手を挙げ慣れておらず、われながらぎこちないのです。

    先日礼拝前夜「神様、私はあすの司会では手を挙げたくありません。挙げると自分では不自然な感じがするのです。私が尊敬している福音主義の○○先生も「最近では手を挙げて歌う牧師がいる」と疑問をあらわしていたではありませんか」と祈ったのですが、いざ賛美が始まると、手を挙げないことがどうしても不自然に思われて、自分が挙げないと会衆も挙げずに終わりそうだったので結局挙げました。

    もう、御霊の導きなのか、勝手に責められているのかわけが分かりません。
    そもそも「導き」など認識できず、司会のときは緊張でいっぱいな状態で、段取りはキッチリ知性で組み立てます。
    他の教団のように式文があったり賛美歌を両手で持つ文化だといいなあと思ったりもします。手を挙げることに拒否感を覚えること自体が自我とか古い肉の性質で、牧師先生のすすめに添って手を挙げる従順さを求められているのかなあと思ったりもするのですが、ありのパパさんはどのようにお考えですか?
    長くなってすみません。

    • ありのパパ より:

      こんにちは、ミーチャさん。
      コメントをありがとうございます。

      当ブログは無名性の原則にもとづいて運営しています。
      「名乗るほどでもない小さき者」ということです。
      そこのところを御勘案いただきますようにお願いします。

      賛美の時に手を挙げることについてのご質問ですね。
      「そんなものに導きもへったくれもない」と考えています(笑)。
      手をあげたい人は挙げればいいし、挙げたくない人は挙げなければいいだけのことです。

      昔、韓国の純福音中央教会を訪問したとき、信者向けのアナウンスに「賛美を歌っているときは、ご自分も賛美するようにしましょう」と書いてあったのをみてビックリしたことがあります。
      手を挙げるかどうかが問題にされるのは日本の教会だけです。
      他の国では全然問題にされません。

      よろしくお願いします。