依存症は道徳的問題あるいは罪か、それとも病気か?

今日はは皆さんとご一緒に、12ステップはどのような背景から出てきたものなのかを見ていきたいと思います。
当時(1930年代)オックスフォード運動というキリスト教の運動が盛んでした。
これはキリスト教の初めの百年に戻ろうという運動です。
AAの初めの人々は全員がオックスフォード運動のメンバーだったそうです。
しかしオックスフォード運動に留まるよりも、独自にAA(アルコホーリクス・アノニマス)を設立した方がより効果的にアルコール依存症者を救済する働きが出来ると考えるようになりました。

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①オックスフォード運動と医学的見解とユング心理学の三つのものが、AAの創設者の一人であるビル・Wのなかに融合し、そこから生まれたのが12ステップ

これはまさに奇跡的な出来事と言うべきものです。
オックスフォード運動の影響とは12ステップはオックスフォード運動が使っていたステップの拡張版であるからです。
医学的見解の影響とは「依存症は道徳的問題ではなく、まして罪などではなく、病気なのだ」という理解です。
ユング心理学の影響とは「依存症などからの回復のためには霊的な体験が必要不可欠である」という考えです。

②依存症は道徳的問題か、罪か、それとも病気か?

これは微妙な問題ではありますが、避けて通れない問題でもあります。
なぜなら人々が依存症から回復しようとするときの大きな障害になっているのが、自分を責める心、即ち罪責感であるからです。

どういうことかと言いますと自分の抱えている問題がもし道徳にかかわる問題や罪であるなら、それが解決できないのは自分が不甲斐ないからであるとして自分を責めるようになるからです。
そうすると回復のためのエネルギーは自分を責めることに費やされるため、回復が一向に進まないというジレンマに陥(おちい)ります。

風邪を引いたときに自分の不養生(ふようじょう)を恥じる人はいるかもしれませんが、自分を責める人はいません。
自分を責めたりせずに、サッサと病院に行ったり薬を飲んだり、ゆっくり休養を取ることを心がけます。

しかし風邪を引くことが道徳的問題や罪であるとされれば、話は違ってきます。
多分多くの人は風邪を治す行動をとるよりも、座り込んで自分を責めることに時を費(つい)やすようになるのではないでしょうか。
ですから依存症をはっきりと病気であると認めることは回復にとって生命的に重要なことになります。

③この点でキリスト教系の12ステップには問題があると言わなければなりません

なぜなら彼らは表面的には12ステップを踏襲(とうしゅう)しつつも、12ステップにとって最も大切な理解である「依存症は病気である」という見解を言外に否定しているからです。
「キリスト者のための12ステップ」という本にはこの問題について著者が考えるところが明確に述べられています。

「もしこれ(依存症)が病気であるとしたら、罪ではあり得ない。しかし本当にこれは罪ではないのだろうか?」

これがありのパパがキリスト教系の12ステップの本を読むときに感じる罪責感の理由だと納得がいきました。
皆さんに考えていただきたいのは「依存症から回復しようとするときに自分を責めていたら回復の道を歩むことが出来るでしょうか?」ということです。
ある人は「自分を責めることは前向きのエネルギーをその人に与えるのではないか?」と仰るかもしれません。
ありのパパはこう答えます。「あなたは正気ですか。人が無限に成長を始めるのは責められたときではなく、ありのままを受け入れられ赦されたときです。」

④聖書が教える罪の概念には道徳的罪・法律的罪という意味合いが含まれている

聖書を教える人々がよく言うことに「聖書が教える罪は、私たちが想像するような意味での罪ではなく『的外れ』という意味なのだ」というのがあります。
この説明は間違っているとは言えませんが、しかし罪という言葉が含む意味の全てを説明しきれていません。
なぜなら聖書が教える罪という言葉には、的外れという意味以外にも様々な意味があり、その中には道徳的罪・法律的罪も含まれているからです。
そのゆえに依存症を考えるときに一方で病気であると言い、もう片方で「これは罪である」という言い方がされてしまいがちなのです。

⑤依存症に対して正しい理解を持つことの大切さ

私たちキリスト教に属する者たちは、どちらかを選ばなければなりません。
依存症をはっきりと「これは罪ではなく病気である」と認めるか、もしくは「これは病気ではあり得ず、罪である」という立場です。
もちろんありのパパは前者の立場に立つ者ですが、12ステップを学ぶ人々に混乱をもたらさないためにも他の方々にもありのパパと同じ立場を取っていただきたいと願っています。

◎12ステップとキリスト教には親和性があります。
しかし教会の不適切な対応により12ステップによって回復した人々が教会に繋がらないという現実があります。
ここに解決すべき問題があるのではないでしょうか。

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コメント

  1. アンディー より:

    初めまして。
    昨日より、少しずつ読ませていただいています。
    私はバプテスト教会に属するクリスチャンです。
    昨年秋に知り合った方がACとのことで、それまで、ACという言葉すら知りませんでした。
    12ステップを実践し、自分自身の神概念を持ち、日々努力をされているようですが、その神と、私の信じる神とのギャップをどうしても感じてしまい、私も正直に話しすぎたのでしょう、拒否されてしまいました。
    また、なぜそこで?なぜそこまで怒るのか、分からない事だらけ。
    最終的に、クリスチャンである私は「異次元の人間」としてくくられてしまい、私としては何とか誤解を解きたい、解決を持ちたいと、祈りつつできるだけのことはしましたが、結局半年位で、向こうから離れて行ってしまいました。

    難しいです。

    • ありのパパ より:

      おはようございます、アンディーさん。
      はじめてのコメントをありがとうございます。

      そうですね。私もこの問題には気を使います。
      なかなか難しいことですが、相手の方の神概念の程度に応じて対応しないと、今回のようなことになってしまう危険があります。

      未信者であってもクリスチャンであっても、自分の願い事をかなえてくださる神というような幼稚な神概念から、自分のためにではなく神と人の役に立つ人生を送らせてくださる神という神概念へと、その人の回復と成長の段階に応じて神概念もまた変化していくべきものです。
      その視点から見ると、小学校に上がったばかりのお子さんに「あなたはなぜ因数分解が出来ないの?」と言ってはなりません。
      要するに神概念について議論してはならないということです。
      では何を話せばよいかと言えば、それは神が自分にどんなに良くしてくださったかを、すなわち神の愛について話せば良いのです。
      神の愛を話されて、それを拒絶する人はいないからです。

      ともに励んでまいりましょう。
      またコメントしてください。お待ちしています。

      追伸
      実名が記されておりましたので、こちらの方で勝手にニックネームをつけてしまいました。
      お許しください。
      違うニックネームがいいばあいは、申し訳ありませんが、次回にコメントしてくださるときにでもお知らせください。
      変更させていただきます。
      よろしくお願いします。

      • アンディ より:

        ありのぱぱさん、こんばんは。
        早速のご返答ありがとうございました。
        また、アンディという素敵なニックネームをつけてくださって、ありがとうございます(笑。すみません、送信した後に、あれー?ニックネームってどこに書くんだったのかな?って思ってました。)

        神の愛については、どれだけの恵みを私は受け、そして受け続けているか、ということを話した時には、反論はなかったのですが(かといって共感があったかというと不明)、続けて、その神さまはあなたのこともほんとに愛してるよ、と伝えた途端に激怒し、もうそのことは決して言うな!と言われてしまいました。理由も聞けませんでした。

        そして、彼は、ACとのことですが、接していて、困惑することがとても多かったので、知人の紹介で、精神科の医師に相談したところ、境界性パーソナリティー障害、自己愛性パーソナリティー障害でしょうとのこと。

        モラハラ発言、メールがほとんどで、私もかなり振り回されてしまいました。

        最初から、私に彼を治すとか変えるとかなんてできなくて、それができるのは神のみ、という考えの元に接していましたが、
        私は、何かできると思っている大変危険な人、とみなされていて(「我々ACは自分が無力であると知っている」というのとペアで使われました。)、「クリスチャンという異次元の人」と同様に、私のことを一方的に結論付けて、勝手に終了。
        そんな感じでした(すみません、伝わりますでしょうか…。)

        私も、少しずつ、自分が傷ついていたことに気付き、最初はとにかく困惑、だったのが、怒りを経て、今は怒りとゆるしを行ったり来たり、といった状態です。

        難しいです…。

        • ありのパパ より:

          こんばんは、アンディーさん。
          コメントをありがとうございます。

          具体的なことが書かれていませんので断定的なことは申し上げられませんが、空気は伝わってきます。
          相手の方がAC以外に問題をもたないとすれば、伝道されている、あるいは宗教的な神概念を押し付けられていると受け取ったのでしょう。

          しかし純然たるACがモラハラ発言やメールなどをすることは一般的に言ってないことです。
          ですから(モラハラの頻度にもよりますが)発達障害ないしは人格障害をともなっているACだったのかもしれません。

          ただ「神様はあなたを愛しておられる」と言うのは禁句です。
          なぜなら相手にしてみると「愛しているなら、なぜ今こんな状態になっているのか!?」ということになるからです。
          ですから「神に愛されている」ということを伝えるときは同時に「ではなぜ愛されているにもかかわらず、こんなふうになってしまったのか」ということの回答も提示する必要があります。
          それをしないで、相手にスローガン的に言ってしまうと相手の怒りを引き出す危険があります。

          またコメントしてください。お待ちしています。

          • アンディ より:

            ありのぱぱさん、こんばんは。
            ご返信をありがとうございます。

            なるほど…神が自分を愛しているのなら、なぜこんな境遇に自分を置いたのか、という怒りを引き出してしまう、ということですね。突然に怒り出す理由が分かった気がします。

            もちろん私には、怒らせるつもりはなく、今までの境遇で満たされなかったもの(大きくあいている穴)を満たすことのできる存在は、神しかないよ、その神さまはあなたをそのままで愛しているよ、と伝えたかった訳ですが、
            突然の激怒で話を続けることができませんでした。

            穏やかに話ができるときは、冷静に自分自身を分析できる、とても頭の良い人なのですが、
            どこに怒りのスイッチがあるのか分からないため、気を遣い遣い話をすることになり、ある種の怯えも出てきてしまい、
            しかも、私にしてみると、相手を思ってしていることまでが、怒りにつながるので、

            困惑(なぜ怒るのか分からない上に、怒って私を責めるので、私が悪いのかも、と自信を失くす状態)

            →怒り(何をしても、しなくても、怒るんだなぁと思いました。しかも言ってる理由があまりにも信じがたいこと。…色々とひっくるめて、非常な理不尽さを感じました。)
            という感情のルートを辿りました。

            しかし、考えてみれば、十字架にかかられた私たちの主は、罵詈雑言を浴びせられたとき、十字架なんてやーめた、とおっしゃらず、彼らは何をしているのか自分で分からないのです、とおっしゃった。

            彼と同じ人生を歩んだとしたら、私も同じことをしたかも、しなかったとは言えない、と思いました。

            私には未だに何が何だか分からないのですが、
            怒りから、すーっと解放されたのが、一月ほどひとりで怒りまくったあとです(笑)。

            その後も、怒りの感情と、ゆるし(というのか何というのか…)の感情の両方が、濃淡つけあって私の中で共存、という感じです。

            「すぐに怒る人は、傷を沢山抱えている。生傷をさらしているから、風がすーっと吹いただけで激痛。」

            今回色々と勉強する中で、そう書いている本を読みました。
            それはかなりつらいだろうな…と思いました。
            キリスト者として、何かできたら、と思って接していましたが、危険人物とみなされて去っていってしまった。

            主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。

            ということなんだろうなぁ…。

            すみません、まだ私は分かっていないんです、相手のこと、全体像、主の計画…。

            長文になりました。読んでくださってありがとうございました。

          • ありのパパ より:

            こんにちは、アンディさん。
            コメントをありがとうございます。

            お話を伺っていて強く思ったのは、アンディさんとその方との関係は虐待加害者と被害者の関係に近いものがあったのではないかということです。
            このような不健康な関係に陥ったなら、速やかに関係を解消することが肝要です。
            (もちろん親子関係など、解消しようがない関係の場合は別です)

            キリストも同じようにお苦しみになられたというのは(言葉はきついですが)的外れも甚(はなは)だしいです。
            キリストの十字架によって救われた私たちは、二度とそのような苦しみを味わう必要はありません。
            数多くの虐待被害者がアンディさんと同じ理屈で虐待を我慢しました。

            正しい対応は相手のやり口を断固としてはねつけることです。
            しかし多くの場合、それは出来ないことですから、関係を解消するというのが残された道ということになります。

            アンディさんの中にある「怒り」の感情は至極当然のものです。
            理不尽な取り扱いを受ければ「自分自身」は怒るのです。
            「自分」という存在は「自分自身」の良きマネージャーである必要があります。
            今回の件では、アンディさんはご自分自身の良きマネージャーであられたでしょうか?
            自分自身を大切にしている分しか、他人を大切にすることは出来ません。
            平安と祝福を祈っています。

            またコメントしてください。お待ちしています。