今どきのキリスト再臨事情

今日は皆さんとご一緒に、キリストの再臨について考えてみます。
キリスト教は歴史が長い宗教ですので、再臨と呼ばれる事柄についても様々な立場の考え方があります。
ありのパパはペンテコステ派という福音主義キリスト教のグループに属しています。
(それで当然といえば当然ですが、福音主義キリスト教の見解を最も聖書的であると考えています。)
それでは早速言ってみましょう。

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1.キリスト教リベラル派の再臨理解

①キリスト教の中にあるリベラル派というグループ。

日本キリスト教団・聖公会・日本バプテスト連盟など主流派と呼ばれる教団によって構成されています。
キリスト教精神によって運営されている学校・病院などは一部の例外を除いてほとんどがリベラル派のキリスト教徒によるものです。
(再臨についての見解が異なるからといって、この方々の愛の労苦が神の御前で忘れられることは決してありません。)

②このグループでは終末論はあっても再臨について言及することがないようです。

その理由は再臨を信じていないからではないかと、ありのパパは考えています。
人は信じているものを口にします。
愛していれば「愛しているよ」と言います。
「愛しているよ」と言わないのは愛していないからです。
「愛しているけど口にしないだけです」というのは見え透いた言い訳です(笑)。

③再臨に言及しない理由は聖書に対する理解が異なるからです。

キリスト教の各グループの最大の違いは聖書の読み方です。
福音主義キリスト教の聖書の読み方は、初代教会のキリスト者たちが聖書を読んでいたように自らも読むというものです。
これに対してリベラル派キリスト教の聖書の読み方は、聖書は時代の制約を受けた書物であり、その中には受け入れられるものと受け入れられないものがあると考え、当然の論理的帰結として聖書から受け入れられるものだけを選んで受け入れていきます。

その受け入れられるものの中に再臨は含まれていないということになるのでしょう。
しかしこの聖書に対する見解には受け入れがたい大変大きな誤謬が含まれていると言わなければなりません。

④なぜならそもそも聖書自身が「聖書はすべて神の霊感によるもの」(Ⅱテモテ3:16)と主張しているからです。

これは聖書に相対する者に「確かに霊感によるものであり、誤りのない書物である」か、それとも「霊感なんていうものはどこにもない。これは詐欺・ペテンの類の書物である」と、どちらかの告白を迫るものです。

これはキリストご自身に対する私たちの態度を考えてみれば、すぐわかることです。
イエスはご自身を神の子と言われました。
これはユダヤ教の文脈では「比類なき神のキリスト」という意味を指しています。
だからこそ、ユダヤ教の指導者たちはイエスを神を冒涜する者として十字架に付けたのです。
無責任な第三者を気取るならいざ知らず、真摯にキリストに向き合う者は、この御方がご自身で言われる通りの「神の子」なのか、それとも大嘘つきのペテン師なのか、精神的病から来る虚言症者なのかを決めなければなりません。

〇今の時代にあっては「聖書はどのような書物であるか?」という質問がそれに当たるようです。

2.福音主義キリスト教の再臨理解

では福音主義キリスト教の再臨理解を持っていれば何の問題もないのでしょうか?
いいえ、とんでもありません。おおありのこんこんちきです(笑)。

①重大な心理的問題を抱えている人が再臨という刺激に嗜癖(しへき)している場合。

これは宗教依存症・信仰依存症ということです。
本質はアルコール依存や薬物依存と何ら変わるところはありません。
ただ嗜癖している対象がちがうだけです。
ありのパパははじめは「そんな人はいない。いたとしてもごく少数だろう」と考えていました。
しかしカウンセリングをはじめてから、この問題は大変深刻な影響を人々に与えていることに気づきました。

②信仰者である親による子供への虐待

再臨信仰に熱心な親による子供への行き過ぎた指導は、十分虐待になり得ます。
芸能界で活躍する人の中に、熱心なキリスト者の親を持つ方々がおられますが、その方々の親御さんは信仰に熱心ではあっても、信仰を子供に押しつけ「そんなことしていると神様に裁かれるわよ」と長期間に渡って脅(おど)かし、それをしつけと錯覚していました。
当のご本人たちはもう老年のいきに差しかかっているにもかかわらず、子供時代の虐待からくる影響を克服できないでいるようでした。

〇では聖書が教える健全な再臨理解とはどのようなものでしょうか?

3.聖書的で健全な再臨信仰とは?

再臨の問題を信仰生活と絡めて分かりやすく解説してくれている聖書の書簡にペテロの手紙第2があります。

①再臨を待ち望む理由は何か?

このペテロの手紙第2によると、再臨を待ち望む理由は救いの確信を失わないため、神の恵みを知ることと神ご自身を知ることにおいて成長していくことであると述べられています。(Ⅱペテロ3:18)

神の恵みを知るとは、神がどんなにか私たちを愛しておられるかをよくよく知るということです。
神ご自身を知るとは、神との人格的交わりを持ち、神様ご自身を知るようになるということです。
この二つの目的のために再臨信仰があるとも言うことが出来ます。
逆に言うなら、いくら再臨を熱心に待ち望んでいると言っても、神の愛を知ることにも神ご自身を知ることにも熱心でないなら、そのような再臨信仰は神に受け入れられないと言うことです。

②神にとって、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。

12ステップをやっている人々のスローガンの一つに「今日一日だけを生きる」というのがあります。
これは焦点をぼやかさないために、今日一日だけに意識を集中することです。
イエス様も「明日の心配は無用です。労苦は今日一日で十分です。明日のことは明日に心配させなさい」と明快に言いきっておられます。

確かに一日単位で生きている人にとっては、一日も千年も本質において変わりません。
なぜなら、それが百年であろうが、千年であろうが、一日一日によって出来上がっているからです。
千年は一日のようであると仰る神様と歩調を合わせる秘訣は、私たちが一日だけを生きることに徹することです。

③神の御心は、一人も滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むこと。

神は私たちが一人も滅びないですべての人が悔い改めに進むことを願い、そのために再臨を延ばしておられると言うのです。
そして宣教の業は私たちクリスチャンに委ねられています。

◎私たちは今日どなたかに神が愛であることを語ったでしょうか?
小さなキリストとして人々の悩みに耳を傾けたでしょうか?
自らを省みたいものです。
平安と祝福を祈っています。