万人救済主義に気を付けるべき三つの理由

現代日本では「死んだら、それで終わり。死後の世界はない」という認識が一般的です。
しかし宗教の世界ではキリスト教を含めどんな宗教であっても必ず死後の世界の存在を説きます。
これをうさん臭いと捉えるか、「死後の世界の存在を教えてくれて、ありがたい」と捉えるかは人それぞれでしょう。
キリスト教では「イエスを信じる信仰によって救われる」と教えます。
まぁ、キリスト教という名前ですので「キリストによる救い」と言われても余り違和感はないと思います。
しかしキリスト教の中には、キリストを信じる信仰によらないでも救われると教える人たちがいます。
もちろんこれらの人たちの教えは聖書から出ていませんから、真正なキリスト教の教えということは出来ません。
今日は皆さんとご一緒に、この問題を考えてみたいと思います。
なお、今日の文章はコメントに対して返信した文章を元にしています。

スポンサーリンク

1.万人救済主義は博愛主義を前提にしている

①小さな親切、大きなお世話とは?

(ここで言う博愛主義とは本来の意味ではなく、博愛主義を乱用した結果としての間違った博愛主義を指して使っています。)
万人救済主義を説く人々は心の中で「私は救われているから良いが、イエス様を信じていない人は救われないから可哀想」と思っていないでしょうか。
「自分は救われている」という高見(たかみ)に自分を置いて、「だけど救われていない人は可哀想」というわけです。
それで、すべての人は既に救われていると理解するに至ります。
しかし他人様の救いの心配をするというのは、文字通り「小さな親切、大きな迷惑」にほかなりません。

②聖書は「自分自身の救いを全うせよ」と教えており「あなたはイエスを信じているから大丈夫」とは教えていない

すべての人はなんらかの問題を抱えています。
聖書に「義人はいない。一人もいない」とあるように何一つ問題がないなどという人は一人もいないのです。
もちろん自分に問題があるにもかかわらず、問題がないと錯覚している人は多くおられます。
しかしそれも時間の問題であり、いつかは問題と対面しなければならないときが必ずやってきます。

自分の問題に真摯に取り組んでいる人は、他人様の問題に首を突っこみません。
これはどういうことかと言うと「自分自身の救いを全うすることに全力投球しているなら、他人の救いの心配をするという余計なお世話はしませんよ」ということです。

③受容と共感による伝道とは?

では伝道はしなくても良いのでしょうか?
いいえ、そうではありません。
伝道をするしないが問題なのではなく、どのように伝道するかが問題なのです。
キリスト教の救いは「自分が救われてこんなに良かった。だからあなたも信じてみない?」というものです。
自分の救いと人々の救いが、人生の試練という問題を通して繋がっているのです。
それに対して万人救済主義を唱える人々の認識は、自分の救いと他人の救いを観念的・対立的に捉えているのではないでしょうか。

④問題を通して自分と人々を見る

救いの問題を観念的に見るとは、死後の問題にのみ限定して救いを捉えるということです。
しかし生きている生身の人間には問題が山積みです。
ほとんどの人にとっては死後の世界にまでは手が回らないというのが実感ではないでしょうか?

では問題を通して自分と人々を見るとは、どういうことでしょうか?
たとえばありのパパはアダルトチルドレンですが、このACからの回復を目指す中で、イエスへの信仰が鍵であることを知りました。
そしてそれが分かったら人々にそれを宣べ伝えたいと思うようになりました。
自分からミーティングではキリスト教の話をしませんが、人々が「話をしてくれ」と聴いてくれます。
こんなに有り難いことはありません。

⑤キリストの救いは観念的ではなく、実存的なもの

(実存的という言葉を「この世から始まる」という意味で使っています。)
キリストの救いを死後の問題にのみ限定して捉えるのではなく、現実の問題の解決に繋げて提供していくとき、真(まこと)の神の愛を人々にお伝えすることが出来ます。
それに対して死後の問題にのみ限定して「死んだら、だれでもイエスを信じてなくても救われるんだよ。いいでしょ?」と言われても、人々の反応は「ふ~ん、それがどうした」というものではないでしょうか。
ですから、ここでも万人救済主義を言わないと「神が愛なる御方であると言えなくなってしまう」という主張が根拠のないものであることが明らかです。

2.聖書を字句通りに解釈する限り、万人救済主義を受け入れる余地はない

①[聖書は何と言っているか]が一番大切なこと

様々な方が万人救済主義を述べておられます。
しかし私に言わせるなら「それがどうかしましたか?」ということになります。
キリスト教はつまるところ聖書宗教であり、聖書に書かれてあることを信じる信仰です。
ですから[だれが何を言っているか]などということはまるで関係がないのです。
問題の核心はいつでも[聖書は何と言っているか]でなければなりません。

②死後の裁きについて

死後の裁きの御座で「あの人が、この人が、このように言っていたので、私は信じました」とイエスに申し上げたところで、返って来る言葉は「わたしの言葉である聖書は何と言っていますか?あなたは人の言葉ではなく聖書の言葉に従うべきだったのです」というものではないでしょうか。

③万人救済主義を言わないと伝道出来ないか?

万人救済主義を主張する方々が良く言われることに「この理解でないと日本では伝道が進まない」というのがあります。
ここまでの説明で既にお分かりのように、ちっともそんなことはないのです。
かえって現実の世界で苦しんでいる人々に向けて、問題の解決としてのキリストを宣べ伝えることこそ、効果的な伝道であることが明らかです。
死んだ後に受ける救いに人々が関心を示すと考えることほど、観念的・空想的な考え方はありません。
(死んだ後に受ける救いが重要でないと言っているのではありません。決して誤解なさいませんように。)

3.神を信じるということは、自分が分からないことをも含めて委ねるということでなければならない

〇委ねるとは、自分の理解の及ばないことを手離すこと。

信仰者には「人間には分からないことが沢山ある。しかしイエスの元に帰っていくとき、すべてのことが明らかになる」と告白することが出来ます。
しかし「自分に理解できないことは決して受け入れてなるものか!自分に理解できるまでは自分の考えを決して手離さない」と言うことも出来ます。
信仰とは自分の意思と生き方を委ねることです。
そして委ねるとは、自分の考えを手離すことです。
さて、あなたはどちらの告白をお選びになられるでしょうか?
平安と祝福を祈っています。