実践すればするほど理解度が増すという原則について

私たちの人生にはやればやるほど訳がわからなくなるときと、実践すればするほど理解度が深まるときがあります。
聖書に「種が蒔かれた地面のたとえ」の物語があります。
この記事では理解力が深まる生き方について解説しています。

        

一番目の「踏み固められたあぜ道」とは神の言葉を聞いても心を固く閉ざした人

このような人は一言で言うと「カエルの面(つら)に小便」というやつです。
何を言われても無反応であり、たまに反応したかと思えば、次の瞬間には忘れています。
これは反面ではストレスフリーな生き方であるとも言えるのですが、失うものもまた多いと言わなければならない生き方です。

「すぐに忘れてしまう人」の人生に、理解力が増すということは期待できません。
なぜなら「継続的にやってみる」ということだけが、理解力が増すということの絶対条件だからです。

        

二番目の「土が浅く石ころの多い地」とは神の言葉を最初だけ喜んで聞く人

このタイプの人々は困難・迫害が始まると、恐れ退いてたちまちぐらついてしまいます。
たとえばバラ色の生活を夢見て結婚生活を始めますが、相手の短所・欠点をいやというほど見せつけられて「こんなはずじゃなかったのに」とすぐに落胆・失望します。
新しく会社に入っても、現実の厳しさに打ちひしがれてしまい「石の上にも三年」ならぬ僅か三ヶ月で辞めてしまうことになります。
(このような文章を読まれると離婚したことや会社を中途退職したことを責められているように感じられるかもしれません。しかし私の真意はそのようなところにありません。ただ、ではどうしたら次にやってくるチャンスを見逃さず活かすことが出来るかというところに焦点を当てていることをご理解ください。)

        

三番目の「いばらの地」とは神の言葉を受け入れはするが、この世の魅力・金儲けの楽しさ・欲望のとりこになって神の言葉を自分の心からはじき飛ばす人

神の言葉を信じる生き方と、いばらに象徴される「はかないこの世の楽しさ」とは共存することが出来ます。
「えっ、共存できないんじゃないですか?」とお問いになられるかもしれません。
でも現実には共存可能です。
しかしながら、このような状態では神の言葉は実を結ぶことが出来ません。

「百倍の実を結ぶ」ことを約束している聖句はありのパパが大好きな箇所です。
それで朝の黙想の時間に「百倍の実を結ぶ」ことに想いを巡らします。
しかし思いめぐらすだけでは白昼夢と同じであり、実を結ぶことは決してありません。

今日の聖書箇所によるならば、実を結ぶには条件があるのを知ることが出来ます。
条件が正しく果たされているならば「三十倍、六十倍、百倍もの収穫をあげる」ことができると言われています。
では、その条件とはどのようなものでしょうか?

        

四番目の「良い地」が「三十倍、六十倍、百倍もの収穫をあげる」ことができる人

興味深いことに聖書には「良い地」がどのような特徴を持っているかについて記されていません。
これは要するに前出の①から③の特質を持っていなければ、それで良いということであると思います。

a.神の言葉に無関心でないこと 

b.心の深いところまで福音を適用していること 

c.神に従うのを妨げるものを心に持たないこと

皆さんはここまでの文章を読まれてどう思われたでしょうか?
「なんだ。簡単じゃないか。私もやってみよう」と思われた方もおられるでしょうし、「私には無理だ。私の心には石ころもいばらもある。かつて努力したこともあったが無理だと悟った」と思われる方もおられると思います。

これがやればやるほど訳がわからなくなる場合と、やればやるほど理解度が増す場合ということです。
ではどうしたら、やればやるほど理解力が増す生き方を実践できるでしょうか?

福音をカウンセリング的アプローチによって自分自身と隣人に適用する

福音のカウンセリング的適用とは、聖書に昔からあったが今は忘れ去られている宝物をもう一度発見するということです。

たとえば①の無関心ということも福音(神の言葉)を何か余分なもの、余計な重荷をになわせようとしていると受け止めているから、相手は無関心な態度を示すのです。
これが自分から重荷を取り去るものとして福音を受け止めていれば、相手は興味津々(しんしん)となります。

②の迫害が始まるとたちまちぐらついてしまうのは、心の問題・人生の重荷を神に解決していただいたことがないからです。
もし人生の大問題を神に解決していただいた経験のある人なら、迫害があっても決して転ばないどころか、ますます信仰に堅くされます。

③のこの世の欲は、信仰が与える恵みが本当には分かっていない時には大きな惑わしとなります。
しかし自分がいつか必ず死ぬこと、そして死んだ後かならず神の裁きがあるということを確信していれば、はかないこの世の楽しみにうつつを抜かそうとは思わなくなります。

昔キリシタンの人々は喜んで磔(はりつけ)の刑に掛かりました。
それは彼らには人の知らぬ喜びがあったからです。
現代に生きる私たちもキリシタンと同じように信仰から来る喜びを持つことが出来ます。
実践すればするほど理解力が深まる生き方の秘訣は、福音を自分自身と隣人にカウンセリング的に適用するところにあります。

◎平安と祝福を祈っています。

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