イエスの教えの中心は何か?

プロテスタントは教えの中心を「信仰義認(信じることによってのみ救われるという教え)」に置きます。
それに対してカトリックはイエスの模範に従うことを教えの中心に置いているようにも見えます。
カトリックの「信仰と行いの両方によって救われる」という教えに接するたびに、ありのパパは「善い行いをなすことよっては救われることが出来ないからこそ、イエスの十字架を信じたのではないか?」と思ったものでした。
そこで今日は皆さんとご一緒に、この問題について考えてみたいと思います。

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①イエスご自身が、教えの中心が何であるかを明白に述べておられる

『先生。モーセの律法の中で一番重要な戒めは何でしょうか。』(マタイ22:36)[LB]

上記の聖書箇所はパリサイ派という当時の宗教的勢力の一派に属する人が、イエスの言葉尻(じり)を捕らえるという目的を持ちつつ質問したものです。
それに対してイエスは直截(ちょくさい)的にお答えになっておられます。

『心を尽くし、たましいを尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。』
『この二つを守れば、ほかの戒めを全部守ったことになるのです。これを守りなさい。』

これがイエスの質問者に対するお答えでした。

②イエスが、この教えを実行するように命じられた真意は何か?

さらっと読んでしまうと「なぁ~んだ。じゃ、この二つの教えを実行すれば良いのね。キリスト教って簡単じゃん!」みたいなことに成り兼ねませんので注意が必要です。
問題は「この教えは実行可能な教えであるか」ということです。
ありのパパは、この教えは人間には実行不可能な教えであると思います。
ではなぜイエスは、実行不可能であると分かっているにもかかわらず実行するようにと言われたのでしょうか?
ここが肝心な点です。

③行いによって救いに到達しようと努力する信実な人は、行いによっては救いに到達でき得ないのを必ず悟るに至る

ありのパパは個人的には、善い行いをなすことによって救いに到達するということを人生のどこかで全力でやってみるのも、それはそれで良いのではないかと考えています。
なぜなら必ずそこから教訓を得ることが出来ると思うからです。
一度悟った人は、なかなか迷いにくいです。
それに比べて頭の理解で「行いによっては救いに到達し得ない。はは~ん。そうか」と考えて、信仰によって救われる道を選んだ人というのは、端(はた)から見ていると「あなたのその行いは、何か救いを得るために善い行いをしているように見えて仕方ないんですけど?」と言わざるを得ないようなところが見受けられることがあります。

④カウンセリングが日本のキリスト教会に入ってきた時期のこと

いわゆる熱心なクリスチャン達が「キリスト信仰は本質的に自分を憎むものである。であるのに『自分を愛する』などと教えるとは、けしからん!」とクリスチャン新聞に何回も投書しておられました。
正しい聖書釈義と、健全な人間理解があれば、出てくるはずのない意見ではあるのですが、今までずっと「熱心なクリスチャン生活」を実行することを聖書は命じていると思い込んでいた人々にとっては、反発を覚えるのも無理からぬことであったと思います。

⑤イエスの教えには命がある。その教えを実践しようとする者に命を豊かに与える

善い行いを積むことによっては救われることが出来ないと悟った人は、キリストが十字架に掛かることによって私たちを救ってくださったことを知ります。
そしてイエスは私たちのありのままを受け入れてくださったことをも知ります。
それで神様が出来損(できそこ)ないの私を受け入れ愛してくださったのであるなら、自分もまた自分自身をありのままに受け入れ愛するのは当然であると理解するようになります。
そして神様は私だけでなく、私たちをありのままで受け入れてくださったのだから、私の隣人をもありのままに受け入れ愛するべきであると考え実践するようになります。
これが神の教えの全体であり、生命的に重要な部分であると、ありのパパは信じております。

◎イエスが、この教えを実行するように命じられた真意を知って、律法の要約とも言える「神を愛し、自分自身を愛し、隣人を愛する」ことに全身全霊を尽くしていきたいものです。
平安を祈っています。

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コメント

  1. あゆ より:

    求道中のあゆです。

    教派とかはよくわかりません。
    行ってる教会は進化論否定とかそういうカンジで、異言に関しては全くノータッチなので、いわゆる福音派なんじゃないかと思います。

    その文章の中に行動というワードが入っていないから、行動<<<信仰ということを意図しているわけではないと思いますよ。

    当時、イスラエルはローマの属州となり、旧約が編纂された時代の価値体系がだんだん通用しなくなるような変化の時代にあったのだと思います。
    その中でイエスは、ある意味ではその急速な状況の変化に対応する手段として、律法そのものではなく、律法の本質である愛に基づいて行動することを、教えの中心としたのだと思います。
    それがその文章の意図ではないですか。

    イエスがいたとしたら、あなたの子供が穴に落ちたとしたら、子供に対する愛が大事か、子供に対する行動が大事かとかそういうことが問題になりますか、隣人をそういうふうに愛しなさい、ってこう来ると思いますけど。

    • arinopapa より:

      こんにちは、あゆさん。
      初めてのコメントをありがとうございます。

      >その文章の中に行動というワードが入っていないから、行動<<<信仰ということを意図しているわけではないと思いますよ。

      申し訳ないのですが、私にはあなたの言わんとしておられることが理解できませんでした。
      もう少し、この文章が出てくる前提の所から書いてくださると良かったと思います。
      あゆさんにとって当たり前のことが、私には当たり前のことではないというのが普通のことです。
      ですので、その当たり前のことを「だから省略しても良い」と考えずに、そのご自分が当たり前のこととしておられるところから説明をスタートしていただければと思います。

      よろしくお願いいたします。
      またコメントしてください。お待ちしています。

  2. あゆ より:

    >『心を尽くし、たましいを尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
    >『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。』
    >『この二つを守れば、ほかの戒めを全部守ったことになるのです。これを守りなさい。』

    アナタがこれら三つの文章をイエスの教えの中心であると行って取り上げてらしたので、この3つの文章の中に、愛というキーワードが入っていても、行動というキーワードが入っていないからといって、イエスの教えの中心は、行動ではなく信仰であろうという考え方はできないであろうと申し上げました。

    • arinopapa より:

      こんばんは、あゆさん。
      コメントをありがとうございます。

      >イエスの教えの中心は、行動ではなく信仰であろうという考え方はできない

      これがあゆさんの仰りたいことであると受け止めてよろしいのでしょうか?
      そうであると仮定して、話を進めることに致します。
      私はこの記事の中でどこにも「イエスの教えの中心は、行動ではなく信仰である」とは申し上げておりません。

      またコメントしてください。お待ちしています。