祈りの勘どころ

『父なる神は、あなたがたに何が必要かを、あなたがたが祈る前からすでに、ご存じなのです。』[マタイ6章8節](リビングバイブル)

この箇所を読んで、ある人は「だったら祈る必要なんかないじゃないか」と言いました。
果たしてそうでしょうか?
今日はこの問題を皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。

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1.問題は[私たちが自分の真の必要を知らない]ということ

息子さんが統一協会に洗脳されて、その脱出活動に携わる中で息子さんのお父様はこう言われました。「かつて私は家を建て、財産をこしらえるのが人間の幸せだと思っていた。しかし息子の救出活動に携わる中で、人としての幸せは、そんなものではないと気づくことができた。だから息子の救出活動に携わって本当に良かったと思っている。」
息子さんはお父さんのこの言葉を聞いて「たくさんの迷惑をかけたにも関わらず、このような事を言ってくれる父には頭が上がりません」と言われました。

私たちが自分勝手に自分の必要だと思いこんでいるものは必要でも何でもなく、ただの邪魔なゴミにすぎないということがあり得るのです。
このお父さんではありませんが、わたしたちは人生の越えるべき峠を越えない限り、決してわからない事柄があるように思います。
もし私たちが「誰よりも自分の必要を知っているのは、この私である」と考えているとするなら、それはとんでもない思い違いである可能性があります。
ですから私たちが祈ろうとするとき「私は自分の本当の必要を知らない。しかし天の父は私の真の必要を知っておられる。そこに信頼を置いて祈ろう」と考えるべきなのです。

2.祈り続けると自分自身の必要と隣人の必要に気づく

ある映画の中で、父が娘に向かって「私はどうしたら良いんだ。教えてくれ!」と叫ぶように言います。
それに対して娘は「何でそんなことを娘である私に言わせるの!」と答えます。
そうして娘は怒って席を立ち、その場を去ろうとします。
立ち去ろうとする娘に追いすがるように父親は「お前は二十年前に私に『お父さんがあなたでなかったら、どんなに良かったか』と言ったね。私はそれ以来どうしたら良い父親になれるか探し求めてきた。でもね、私には分からないんだ。頼むから教えてくれないか」と眼に涙を一杯に貯めながら懇願します。
そうすると娘は「お父さんの今の一言で十分よ」と言い、互いに抱き合うのでした。

私たちは自分の必要について知らないのと同様に、自分に一番身近な隣人すなわち家族の真の必要についても知っていない可能性があります。
家族間で問題があるお家のご両親がよく言うセリフが「そんなこと、言わなきゃ分からないじゃないか」というものです。
このセリフを夫婦喧嘩のときには決して言ってはなりませんし、子供が両親の無理解に対して怒りをあらわにしているときも言ってはなりません。
なぜなら、その一言で相手の心を決定的に離れさせてしまう危険があるからです。
難しいのは自分は言ってくれて当たり前と思っているのに、相手は察してくれて当たり前と思っているところです。

3.自分自身の必要に気づけない人は、隣人の必要にも気づけない

人としての最大の必要はありのままに受け入れられることであると、ありのパパは考えています。
自分の子供に「ああせい、こうせい」とやたらに注文が多い親御さんは、大体において自分自身に対しても無意識のうちに「これが出来たら合格、出来ない自分は生きていたら駄目」と言い続けている場合があるようです。
また自分が出来なかったからという理由で、習い事や職業を自分の子供に暗黙のうちに強制するような場合も、「自分はこれが出来なかったから不合格、でも替わりに自分の子供がこれをなし遂げるから、自分も合格となる」という間違った思い込みによるケースもあります。
これなどはまさに替え玉受験ならぬ、替え玉人生と言わなければならないでしょう。

4.祈りの真の目的は、父である神との人格的関係を深めていくこと

「願い事がなければ祈ることがない」というのは考えてみればおかしな話です。
もちろん信仰に入ったばかりの時は、それが当然のことでもあります。
神様は信仰に入ったばかりの方(初信の人)が失望することのないように特別に祈りをかなえてくださっているのではないかと、端で見ていて感じることがあります。
しかし、信仰年限が進んでいくと、無鉄砲な願いもしなくなりますが、たとえ願っても叶(かな)えられなくなるのが一般的であるようです。
もう皆さん既(すで)にお分かりですね。
叶えられないのは、神があなたを愛していないからではなく、かえってあなたを深く愛しておられるからです。
誰ですか、「すいません。私、初信のままで良いんですけど。そんなに深いところまで知らなくてもいいんです」なんて言っているのは(笑)。

◎私たちの真の必要をご存じである神様との人格的交わりである祈りを通して、自分自身と隣人の必要に気づいていく者となりたいものです。
平安と祝福を祈っています。