これだけ知ってれば誘惑に惑わされない三つの秘訣(その2)

イエスが荒野で受けた二つ目の誘惑は「高いところから飛び下りてみろ」という誘惑でした。
今日は皆さんとご一緒にこの問題について考えてみたいと思います。

①「自分は何者なのか」という存在の承認欲求が誰にでもあります。

若い頃には、この存在の承認欲求に万能感がくっついて大変なことになります(笑)。
だれにでも自分の存在を確認したいという欲求があります。
このために人は困難にぶつかっていくと言っても良いほどです。
そしてうまくできれば天狗(てんぐ)になり、傲慢になります。「俺も大(たい)したもんだ」というわけです。
しかしうまくいかなければ卑屈(ひくつ)になり、駄々をこねます。「私なんか、どうせいてもいなくても同じなんでしょ」というわけです。
このような時「あぁ、そう。良く分かったね」などと言ってはいけません。うしろから刺されます(笑)。

②人生の途上に「誘惑者」という名前の敵が存在します。

サタンという人格を持った存在が果しているのかどうかという問題は大変興味深い問題です。
アメリカのオカルトチックなSFドラマなどに文字通りのおどろおどろしい「サタン」が登場することがあります。
ありのパパなどは思わず「ちがうだろ!」と突っ込みを入れたくなるのですが、これはやはり的(まと)を外(はず)していると思います。
サタンの本質的な働きは、人を誘惑して、その人を神の御心を歩む軌道から外すことです。
誘惑者はクリスチャンを誘惑する時、御言葉(聖書の言葉)を用います。
普通に考えれば御言葉によって誘惑されるはずはないと思ってしまうのですが、現にイエスが御言葉によってサタンに誘惑されているのを見れば納得せざるを得ません。

③手段が正当なものであっても、動機が問題となるときがある。

神がいつでも問題にされるのは、その人の心の中の動機です。
極論するなら、動機だけが問題です。その他のことは枝葉(えだは)に過ぎません。
しかし人間社会はそうではありません。
動機を問題とせず、かえって手段を問題視します。
確かに人間と人間という社会関係においては、それは正しいことです。
なぜならいくら動機が正しくても手段が間違っているなら、対称とされた相手は大変な迷惑を被るからです。
このような人はいつも言うことが決まっており「そんなつもりじゃなかった」(じゃあ、どういうつもりだったんだよ)とか「悪気はなかった」(悪気がなかったら何をしても良いのか)「誤解だ!」(誤解じゃないよ。真実を理解したんだよ)などというようなことを言います(笑)。

④しかし神と人との関係においては、そうではありません。

手段ではなく、動機が問題とされます。
これは理に適(かな)ったことです。
なぜなら短期的・中期的には動機が正しくなくても、手段さえ不当なものでなければ、その人も周りの人々も不利益を被りませんが、人生全体のスパンから見るなら動機が正しくなければ、その方の人生は虚(むな)しいものとなるからです。
神はその人の人生が祝福あるものとなることを願っておられますから、人の心の中の動機を問題にされるのです。
「動機とか人生全体が祝福されるとかは良いからさ、目の前の祝福くんない?」と言われるでしょうか?
もしあなたが神であったらどうされますでしょうか?
自分の子供が「体が健康になり、すくすくと育つための食事は良いからさ、おいしいもの甘いものをくんない?」と言われて、「それもそうだね。ちょっと待っててね。今お菓子を買ってくるから」などという親はいません。
人間の親でさえそうであるなら、なおさら私たちの天の父である神は私たちの人生が全体として祝福されることを深く願っておられるのです。

④短期的利益ではなく、長期的利益すなわち人生全体のスパンで考えよう。

いくら手段が正しいとしても、動機が間違っているなら、イエスのように決然とサタンに『あなたの神である主を試してはならない』と宣言する勇気を持っていなければなりません。

◎一年の初めに当たって自分の心の中に間違った動機で始めているものはないかどうかを確認したいものです。
平安と祝福を祈っています。

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