旧約聖書に見るエルサレム陥落

歴史上エルサレムは二度陥落しています。
一度目はバビロンのネブカデネザル王によって、二度目はローマ軍によって陥落しています。
今日は皆さんとご一緒に、この一度目のエルサレム陥落の原因を見ていきたいと思います。

①聖書に登場するイスラエルは神のご計画を実現する民としての信仰共同体的国家でした。

その特別な国家的性質のため、イスラエルは唯一の神を信じる信仰だけが許されていました。
しかし許されていたと言っても、人の心をコントロールすることは難しいことであり、偶像を拝む異教や、星占い・霊媒(れいばい)などの死者や諸々の霊との交信を行う宗教や、果ては子供たちを人身御供にする(具体的には子供たちを焼いてしまう)宗教まで存在するようになってしまいました。

こんなことをするなら真の神との契約を破棄して、イスラエル人でなくなれば良いのですが、人間というものは中々に愚かと言うべきなのか狡猾と言うべきなのか分かりませんが、現在持っている特権を失わずに他の人々が行っているような偶像礼拝をしたいと考えるもののようです。

②統治する王によって「良い王」「普通の王」「悪い王」が目まぐるしく変わる。

良い王が登場して国民に真の神を拝むように勧めるときもあれば、「偶像を信じないと殺すぞ!」というトンデモ王も登場しました。
なぜこんなことになったのかという原因を考えると、それは新しい王を選ぶシステムに問題があったということです。
新しい王は通常ですと先代の王の子供の中から選ばれました。
子供といっても沢山いる子供の中から選ぶわけですから、これは権謀術数(けんぼうじゅっすう)が渦巻(うずま)く中で権力争いという様相(ようそう)が強くなります。
そのような中では国民を大切にするとか神を敬(うやま)うとかは、どこかに行ってしまいがちです。
それで権力争いの末に選ばれた王がたまたま信仰深いと善政を行い、自分のことしか考えない王であると悪政の限りを尽くすことになります。

●では選挙によって為政者を選ぶ民主的システムなら問題は起きないでしょうか?

③選挙によって選ばれた為政者が善政を行うとは限らない。

なぜなら選ぶ側の国民に為政者の本性(ほんしょう)を見抜く洞察力がないなら、選挙は単なる政治ショーとなってしまうからです。
よく「候補者の公約を読んで選べ」と言われますが、これも候補者に公約を守る気が始めからないなら、公約を良く読んでも仕方のないことになります。
公約を良く読む前に、その候補者に公約を守る気があるのかどうかを見抜く必要があります。

④歴史を重視することが必要。

ヨシア王はまれに見る善王でしたが、先代の王がなした悪政のゆえにイスラエルを滅ぼすという神の裁きを変更することは出来ませんでした。
物事には変えられることと変えられないことがあるのを見ることができます。
ヨシア王の前の王がなした悪政の中でどれが神の怒りに触れたかというと、異教の神々を拝んだことでもなく、子供たちを人身御供(ひとみごくう)にしたことでもありませんでした(もちろん、これらも神の怒りを買ったことには違いがありません)。
では何かと言うと、それは天地の造り主だけを信じる信者たちを殺したということでした。
この罪のゆえに神はイスラエルを滅亡させることをお決めになったと聖書に書かれてあります。

⑤日本と韓国のこと。

戦前の神道原理主義政府は国内のキリスト教会を弾圧しただけでなく、韓国・中国のキリスト教会をも徹底的に弾圧しました。
韓国のある村では(その村ではほとんどの人がクリスチャンでした)、村人たちを教会に集め、その教会に外から鍵を掛けた上で、教会を焼き払うということをしました。
旧約聖書の基準で言うなら、弾圧をしても、異教を押しつけても、それだけでは神が国を滅ぼす理由にはならないが、真の神を信じる大勢の信仰者たちを殺すということを為政者がしたとき、それは神がその国を滅ぼすとお決めになられるということが言えます。

橋本前大阪府知事(現・大阪市長)は君が代斉唱を拒む公立学校教職員を罷免にすると息巻いています。
しかしこれらの教職員は単に職務に不忠実であるから君が代斉唱を拒んでいるのでありません。
戦前の日の丸・君が代を利用した神道原理主義の惨禍を目の当たりにしたがゆえのことです。
このような場合には個人の信教の自由が最大限に尊重されなければなりません。
個人の信教の自由の制限の行き着くところは、戦前のような神道原理主義による国家支配にほかなりません。

◎今年中にあるかもしれないと言われる総選挙ですが、もしそうなったとき間違いのない選択が出来るように今から良く考えておきたいものです。

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