順番を間違わない・的を外さない

信仰生活で大切なことは、順番を間違わないことと、的外(まとはず)れにならないことの二つではないでしょうか?
今日は皆さんとご一緒に、この問題を考えてみたいと思います。

①ありのまま(自己受容)と聖い生活の関係。

「ありのままを受け入れる」という教えで一番誤解されやすいのは「だったら罪犯し放題で良いのか?」という疑問です。
もちろん、そうではありません。
霊の世界の現実はうまくしたもので、自分自身のありのままを受け入れると、霊的な力が働き始め、罪から解放された生活を生きることが出来るようになります。
もしある人が「私は自分自身のありのままを受け入れているが、罪から解放された生活を送ることができていない」というなら、その方はいまだに自分自身を本当にはありのままに受け入れてはいないのです。

②的外れにならない。

ある人が「ある罪を止めれません」と言うので、何の罪か聞いてみたところ「酒を飲む」ということでした。
聖書には『酒に酔ってはなりません。むしろ御霊に満たされなさい。』[エペソ5:18]とあり、酒を飲むことは禁じられておらず、泥酔することが禁じられています。
このことをその方にお話したところ「そうかもしれませんが、私は完全なクリスチャンとなりたいのです」と仰られました。
その気持ちは分からないでもありません。
しかし、聖書が禁じていないことを自分勝手に罪と認定して、その罪を犯さないでいることが出来ないと悩むというのは、(厳しい言い方になりますが)一人芝居に過ぎません。
一度限りの人生を、このような一人芝居のために浪費するのは大変もったいないことであると考えますが、皆さんは如何お考えでしょうか?

③万能感は無くなるか?

多くの方は自分の問題を解決しようとして何ともならず、万策(ばんさく)つきて仕方なしに自己受容の世界にやってこられます。
もし何とかなっていたら、万能感大爆発の人生を送っていたかもしれないのです。
そういう訳で、心の底では「今に見てろよ。俺(私)だってやるときはやるんだからな」と思っておられます(笑)。
でもそれで良いのです。
もしそのような本音を押し隠して「聖い人」を演じるなら、それは偽善者の始まりとなってしまいます。
心配しなくても、長い人生の中で様々な荒波に揉まれて、本音の自分が問われることが幾度もあります。
そして気がつくと、そのような本音に振り回されなくて済む程度には解放された人生を送ることが出来るようになっています。

④霊で始めたことを肉で完成させるとは?

とても残念なことですが、クリスチャンにとって「救い・赦し・ありのまま」ということと「聖潔・聖化・成長」という題目は対立的に捉えられています。
「こちら立てれば、あちら立たず」みたいな感じです。
これは何故かと言うと、私たちが本音では「何だかんだ言っても、やっぱりクリスチャンになったんだから聖い行いは基本でしょ」と考えているからです。
だからこそ教会では「救われたままではいけない」とか「救われたというところに何時までも止まっていないで成長を目指して前進しなければならない」というようなことが良く言われる訳です。
これは言葉は美しいのですが、結局言わんとしていることは初代教会の時代のエルサレム教会にいた律法主義者が「イエスを信じて値なしに救われたことは素晴らしいことだが、そうは言ってもやっぱり律法も守ってもらわなくては困る」と言ったのと意味は同じです。
ありのパパはこのように言う人々に言いたいことがあります。
「あなたがたが言う通りに出来ないから、イエスを信じたのではないか?もしそれが出来るなら初めからイエスを信じることなどなかったのではないか?」

⑤順番を間違わない。

十二ステップの初めの三つは、自己の無力を認め、神の力を信じ、神に従うことの決心です。
ステップの4番目以降が実践となります。
もし初めの三つのステップをスルーして、四番目のステップから始めたとしたら、どうなるでしょうか?
これは決してうまくいかないと思います。
なぜなら4番目以降のステップを行うには神の力が絶対に必要ですが、その霊的な力を呼び込む前提がないからです。

これはキリスト教の救いと成長の関係にも適用することが出来ます。
「赦されている・受け入れられている」という所にしっかりと立っているときだけ、私たちを聖くする神の力が働くことが出来ます。
それを「いつまでも救われたままではいけない」と言って、その場所から離れてしまうなら、私たちは自力で成長しなければならなくなります。
これは結果が明らかな勝負です。このような負け戦をしてはなりません。
私たちが毎日を「自分の無力を認め、神様ならこんな自分を助けることが出来ると信じ、神の御心に自分の意思と考え方を従わせると決心する」祈りをもって始めるなら、黙っていても神の力は私たちに働きます。

◎私たちお互いは勘違い人生を送らないように心したいものです。
平安と祝福を祈っています。

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コメント

  1. としちゃん より:

    「ありのまま」ですか。
    亡き妻 みっちー があちこちで書いていました。

    今年になって恩師から年賀状をいただいて電話で他界をお知らせしました。
    84歳だそうですが、あなたと同じような宗教観を持たれていて亡き妻に教えていたのではないか、その影響があったのではないか、と感じました。

    なお、自己紹介はブログアドレスで省略させていただきます。

    • arinopapa より:

      こんにちは、としちゃんさん。
      初めてのコメントをありがとうございます。

      奥様がお亡くなりになったとのこと、お悔やみを申し上げます。

      私は亡き奥様のみっちーさんは存じあげておりませんでしたが、人々にありのままで生きることをお伝えしておられたのですね。

      みっちーさんはご主人であるあなた様の心の中にしっかりと生きておられるのを文面から感じました。