ただ願い求めるのと、本当の祈りとの違い

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①私たちが願い事を神に求めるときに第一に大切なことは熱心に求めることです。

ダビデは自分が行った姦淫と殺人の罪の結果として、自分の子供が病気になったとき断食して神のいやしを祈り求めました。
「かなえられても良いし、かなえられなくても良い」という態度は、神に祈りをなす者の取るべき態度ではありません。
いったん祈り始めたならば、祈りが神に聞き届けられたという確信が来るまで祈りを止めてはなりません。
しかし現実の世界に生きている私たちは「さぁ、祈ろう!」と意気込むものの、「一時間ぐらい祈ったかな」と時計を見ると、何と3分しか経っていないということが往々にしてあります(笑)。
また祈り始めたとたん、お腹がすいたり、予定を思い出したりするものです。

②ある聖会で韓国からやってきた講師が「祈りこそ、日本を変える」と大胆にメッセージされておられました。

そのメッセージの終わりに「では皆さん、祈りが日本を変えるのですぞ。祈りましょう!」と号令を掛けて祈り始めました。
ありのパパも祈り始めましたが、不思議なことに周りから祈りの声が聞こえてきません。
講師も焦(あせ)って「なぜ祈らないんですか?」とネジを巻きます。
そうすると三分間ぐらいは祈りが続きましたが、すぐにやみました。
「おかしいな~」と思って、薄目を開けて隣のお嬢さんを見ると、なんとその頃流行っていたシステム手帳を開いて予定を確認しているのでした(笑)。
日本人が韓国人のように激烈に、熱烈に祈ることは出来ないかもしれません。
ありのパパは「このようなやり方をしている限り、日本にリバイバルがやってくることはないのかもしれない」と思ったことでした。

③アメリカからやってきた講師の聖会では歌ばかり歌っている印象があります。

こんなに歌ばかり歌って、いつ祈るのだろうか?と感じます。
また日本人講師が祈りの重要性を訴えた祈祷聖会がありました。
くどいと思うほどに祈りの重要性が延々と説かれました。
聖会の時間はどんどん過ぎていきます。
ありのパパは心の中で「いつ祈り始めるのだろうか?時間が無くなってしまう」と気が気ではありません。
やっと祈り始めました。しかしちょっと祈っては歌い始めます。そしてまたちょっと祈ります。
意地の悪いありのパパはストップウォッチで実際にどのくらい祈ったかを計測してみました。
その結果、三時間の祈祷聖会の中で実際に祈ったのはわずか7分間だけでした。
「う~ん、これではリバイバルは来ねぇぞ」と改めて思ったものでした。

④日本人なりの熱心な祈りのスタイルとは?

韓国人によく言われたのは「日本人は祈らない」ということでした。
しかし同じように余り祈らないアメリカ人に、韓国人が同じことを言っているのを聞いたことはありません(笑)。
では日本人が本当に祈らない民族であるかというと、そんなことはありません。
他宗教の人々を見ると、実に熱心に祈っています。
創価学会の人々は毎日一時間ほど唱題(しょうだい=題目を唱えること)をしていますし、日蓮宗の人々は百日行(ひゃくにちぎょう)などをそれこそ命懸けでやっています。

⑤キリスト教の祈りと他宗教の祈りの一番大きな違いは何かというと、キリスト教における祈りは神との会話であるのに対し、他宗教における祈りは願い事の開陳(かいちん)であるということです。

要するにキリスト教における祈りは神という人格を意識しない限り出来ないということです。
では神という人格を意識するとは一体どういうことでしょうか?
それは神を「自分の父親のように感じる」ということであり「神を自分の一番親しい友のように感じる」ということです。
どこの誰だか分からない者に、熱心に大声を出していれば聞かれるかもしれないというレベルでは決して祈ることは出来ないのです。

⑥もう一つ大切なことは自分自身の人格を大切にしているということです。

キリスト教における祈りとは、神という人格と自分という人格の交わりです。
この人格的交わりが正常に行われるためには、どちらの人格も抑圧から解放されていなければなりません。
もちろん神には抑圧などはありませんが、しかし人間の側で色眼鏡を付けて神を見ると、あたかも神の人格が抑圧的であるように見えてしまいます。
これはどういうことかというと「律法を守った者は救い、守らなかった者は救わない」という律法による救いを振りかざす神ということです。
では人間の側における抑圧は何かというと、これも同様に「ここまで出来たら合格、出来なかったら不合格」という行いのみに焦点を当てて人間を見る物の見方です。

◎根拠のない抑圧から自分を解放して、聖書が教える通りに時機にかなった助けをいただくために大胆に神の御前に出させていただきたいものです。
平安と祝福を祈っています。

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