キリスト教の初級・中級・上級とは?

どんなものにも、初級・中級・上級というのがあるものですが、ではキリスト教にそれはあるのでしょうか?
ある人は「そんなものはない。キリスト教は徹頭徹尾キリストの十字架のみであり、十字架に始まって十字架に終わるのだから、人間の何かの修行のような区別があるわけではない。」と言われます。
確かにこれには一理ありますが、では聖書は何と言っているでしょうか?

『ですから私たちはキリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目指して進もうではありませんか。』[ヘブル6:1](新改訳聖書)

私たちの信仰理解や福音理解がどのようなものであれ、まずは聖書が言っていることに従いたいものだと思いますが、皆さんは如何お考えでしょうか。

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1.キリスト教における初歩的な教えとは?

①回心すること(死から命への方向転換)
②神信仰
③バプテスマ
④按手
⑤肉体の復活
⑥永遠の裁き

以上の教えが「初歩の教え」というのです!(笑)
クリスチャンの中には「これが初歩だというのなら、一体あとに何が残っているのか?」と思う方もおられるかもしれません。

2.「次の段階」とは何を指しているのか?

①聖潔派(きよめは)の教会であれば「キリスト者の完全」を目指すのが次の段階ということになります。

昔使われていた文語訳聖書には新改訳聖書では「成熟」と訳されているところが「完全」と訳されていました。
ですので、字面(じづら)だけ読めば確かに「『完全に進め』と書いてあるのだから『キリスト者の完全』を目指せという意味だろう」と考えるのも無理はないかもしれません。
実際、多くのホーリネス派の信徒がこの聖句に励ましを得て、キリスト者の完全の領域へと歩を進めました。

②分離主義カルトの人々なら「これはね、霊と魂の切り分けの教えを指しているんだよ」と仰るでしょう。

問題は聖書がそれを言っているかどうかという一点にあります。
もし聖書がそれを言っていないなら、どんなに目に麗しく映る魅力的な教えであったとしても、またどんなに論理的に完全であったとしても、その教えを受け入れてはなりません。

そもそも神学とは、単純・素朴の信仰を厳密な思考によって支えることが存在目的です。
その神学が聖書より優先されるようなことがあっては決してなりません。

③ありのパパが考える「次の段階」とは、福音の原則をすべての問題に適用することです。

a.努力が足りた者は救いに到達し、努力が足りなかった者は救われないというのが律法主義です。

律法による救いを目指したすべての人が見いだした答えは「誰も律法を守り切ることが出来ない故に、律法を守ることによっては何人(なんぴと)も救いに到達し得ない」ということでした。
それで神は律法によらず、ただ信じることによって救われる道を開いてくださいました。
それが私たちの罪を背負って十字架に掛かって死んでくださったイエス・キリストを信じる信仰であるのです。

b.私たちはイエスを信じたときに律法主義と決別しました。

「神と私」の関係において律法主義から決別したように、今度は「私と隣人」の関係においても律法主義から決別するのです。
自分自身が努力によって救われるという道をあきらめたのですから、人々に対しても「ここまで出来たら合格。出来なかったら不合格」という接し方を改めねばなりません。
これは殊(こと)に教会における人間関係、家庭における人間関係(夫婦・親子)、友人関係に対して適用されなければならないものです。
この困難ではありますが、やりがいのある作業が「次の段階」であるとありのパパは考えています。

3.どうしたら次の段階に進んでいけるか?

①人々をありのままに受け入れる秘訣。

子供をありのままに受け入れるべきことを教わったお父さんが家に帰ってくると子供たちが喧嘩をしています。
はじめのうちは「ありのまま、ありのまま」と念仏を唱えるように子供たちに接していたのですが、そのうち段々とボルテージが上がってきて、しまいには「こら、お前たち。何度言ったら分かるんだ。お前たち同士はありのままを受け入れあうんだ。バカヤロ~!」(笑)
もし私たちが心の中で「隣人をありのままに受け入れることの出来ない自分は受け入れられない」と思っていたなら、ありのまま人生は茶番劇人生に堕してしまいます。
そうではなく「隣人をありのままに受け入れることの出来ない自分であってもOKであり、生きていてよいのだ」と受け止めることです。
これが本当のありのまま人生です。

②律法主義と福音信仰は決して両立することが出来ません。

初代教会のエルサレム教会は周囲と摩擦を起こさないために何とか慣習としての律法と、福音を信じる信仰を両立させようとしました。
しかし結局その試みはうまくいきませんでした。
それでどうなったかというと福音から落ちて律法の中へと戻っていき、キリスト教の歴史から消えてしまいました。
ユダヤ教ナザレ派に止まろうとする努力は、結局死に至る道です。
私たちはどうでしょうか?
日本教キリスト派に止まろうと、死に至る道を歩んでいるということはないでしょうか?
成熟を目指して進むことの出来る道は、律法主義と福音を何とか両立しようとすることではなく、しっかりと律法主義と決別し、福音の原理をすべての問題に適用することです。

◎私たちが人々にとって益となる存在であれば祝福されるようになり、そうではなく人々にとって単に口うるさい宗教キチガイでしかないなら、やがて呪われるようになり、ついには滅ぼされてしまうことになります。
さて、私たちはどちらの道を歩んでいるでしょうか?
祝福と平安を祈っています。

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