どうしたら自分が見えるようになるか?

世の中の人は三種類に分かれます。
一つ目は自分が見えるようになることに、そもそも関心がない人。
二つ目は自分には自分自身が見えていると思い込んでいる人。
三つ目は自分が見えないことを自覚しており、見えるようになることを願っている人。
今日はこの問題を皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。

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①自分が見えるようになるとは、どういうことか?

それは自分の心を遠くから眺めて、もう一人の自分として自分自身を観察することです。
人は日常生活の中で、泣いたり、笑ったり、怒ったりしますが、これは心の表面で起きていることに過ぎません。
問題になるのは普段は心の奥底に隠れており、何かあると顔をぬ~っと出してくるものです。
これを深層意識と呼びますが、この深層意識と表層意識の関係性を把握することが生命的に大切なことになります。
これが出来るようになると自分でも訳がわからない怒りやその他様々な否定的な意識に振り回されることから解放されます。
解放されるといっても否定的な感情がなくなるわけではありませんから、完全に解放されるということを意味していません。
ただコントロール可能になるということです。
今までもコントロールしようとしていたのですが、それは実は抑圧に過ぎないものでした。
子供時代に抑圧された故に今も怒りが心に残っているのに、それをまた自分で抑圧してしまっては怒りが爆発するのもやむを得ないことです。
コントロール(抑制)とは、一方的に押しつける(抑圧)ことではなく、感情の弁を開いたり閉じたりして感情の圧力を一定に保つことです。

②聖書の言葉を自分自身を映し出す鏡として用いる。

『聖書の言葉は生きていて、力があり、両刃の刃物のように切れ味よく、人の心の奥底にある思いや意図を明らかにしてくださる』[ヘブル4:12]

上記の御言葉は「信仰によって救われる」という道から「律法を守ることによって救われる」という道へ逆戻りしつつあった人々へ書かれたものです。
即ち、表面的には「ユダヤ人だから慣習としての律法を守るのは当然のことである」と主張している人の心の奥底には「自分の力で救いに到達したい」という強い思いがあるのを神はご存じであるということです。
ありのパパはこの御言葉を読んで、本来の意味とは違うことを考えました。
「自分が見えなくて難儀しているから、神の御言葉が私の心を刺し貫(つらぬ)いて、私の心の奥底に隠れている怨念や怒りや悲しみを明らかにしてくれるなら何と有り難いことか!」ということです。

③どうしたら聖書の言葉を自分を映し出す鏡とすることが出来るか?

a.聖書の登場人物のなかに自分も入り込む

たとえばパウロはペテロが律法主義者に妥協したとき「そこまでするか!」というぐらい厳しく対応しました。
この場面の中で、もし自分がパウロだったらどのような対応をしたであろうかと考えます。
また自分がペテロだったらどのようにパウロの叱責を受け止めたであろうかと考えます。
そして次の段階では、なぜ自分の対応とパウロやペテロの対応は異なっているのであろうかと考えます。
この時に「パウロさんは立派だから」などというアホなことは考えないようにします(笑)。

b.イエスの物語に自分自身も生きていく

ペテロはイエスに質問するときにイエスの着物のすそを引っ張りました。
ペテロはこのとき大人だったのですが、まるで子供が自分のお父ちゃんに接するように行動しているのを見ることができます。
イエス様も、相も変わらず自分の栄誉のことしか考えない弟子を見ても憤慨することも気落ちすることもありませんでした。
もう初めから全部赦して全部受け入れているのを見ることが出来ます。
このイエスの物語にあなた自身を登場させるのです。
あなたもイエスの衣のすそを引っ張るのです。
そして「イエス様、あのね」と回らぬ口でお話をします。
そうするとイエスの愛が私たちの心の中に流れ込んでくるのを感じるようになります。

④聖書を宗教の教典として読まない

これは「言うは易く、行うは難し」です。
私たちは知らず知らずのうちに、聖書の中に自分の信じている教理を読み込んでしまいます。
それで「ほら、やっぱり聖書はこう言っている」と思い込みの度を深めます。
これではまるで一人芝居です。
このようなことをしてはなりません。

⑤前後の文脈を意識して読む

ありのパパはかつてはガラテヤ書の二章二十節を自分が信じている教理の証明聖句として読み込んでいました。
それで聖書の他の箇所を読んでいるときは「聖書はありのままで私たちを受け入れてくださると言っている」と思うのですが、ガラテヤ書の二章二十節に来ると「あぁ、聖書はやっぱり救いだけでは不足しており、自我を十字架に付けなければならないと教えている」と考え、思考が大変混乱しました。
しかしある時、前後の文脈を大切にしながら注意しつつ読んでいくと、何とガラテヤ書の二章二十節はありのパパが考えていたようなことを全然言っていないということに気がつきました。
ここから聖書を読むごとに自分自身が癒され解放されていくということが起き始めました。
それで今では聖書を読むことが楽しくて仕方ありません。
何回読んでも飽きることがありません。
「もう飽きたかな」と人間的に思うことはありますが、実際にまた同じところを読んでみると前回読んだ時とは違ったことを教えられ、癒しを得ることが出来ます。

◎アダルトチルドレンは自分で自分自身が見えません。
しかし神様には私たちのことで見えないものは一つもなく、私たちのすべてをご存じであられます。
ですから私たちは、たとえ現在、自分自身が理解できなくても、神様は私のすべてを知っていてくださるということに慰めと励ましを得て、自己理解の旅路を一歩一歩進んでいきたいものです。

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