バックスライドを阻止するもの

私たちには目の前の困難を克服し、前進していくことが求められています。
どのようにしたら、気落ちして頽(くずお)れそうになる心を保つことが出来るのでしょうか?
今日は皆さんとご一緒に、この問題を考えてみたいと思います。

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①なぜバックスライドするのか?

それは「自分は無力である」と心から認める立場からずれてしまうからです。
無力を痛感している人は一方的に与えられる恵みにすがりつきます。
しかし、うまくいき始めると、なぜうまくいっているのかを忘れてしまい、調子に乗ります。
無力を認めるとは、言葉を換えて言うと「悔い改める」ということです。
「今までの自分は自分で何でも出来ると思っていたが、そうでないことに気づくことが出来た。かえって何もできない無力な自分であることを知った。これからの人生は『神様なら私をお助けになることが出来る』と信じて歩む」と決心するのが悔い改めであり信仰です。
ですから「悔い改め」がぼやけてしまった人は、恵みからもこぼれ落ちてしまうようになります。

②逆コースはどんな道を通ってやってくるか?

ヘブル人クリスチャンが「律法による救い」にバックスライドしつつある危機的状況の中にあって書かれた手紙が「ヘブル人クリスチャンへの手紙」です。
一度、恵みによる救いにあずかった人がそうやすやすと律法による救いに逆戻りすることはあり得ません。
大変巧妙な罠が仕掛けられて、その罠に気がついたら嵌(は)まっており、そこから抜け出せなくなってしまうのです。

③罠にはどんなものがあるでしょうか?

「慣習だから」とか「皆がやっていることだから」とか「今は仕方がない」とか、はては「そんなことをしていたら証にならない」とまで言われます。
ユダヤ人クリスチャンは、同族のイスラエルの人々に「イエスを信じる信仰を持っても良いが、ユダヤ人なのだからユダヤ人としての慣習は守ってもらわないと困る」と言われて、渋々(しぶしぶ)であったかもしれませんが、それに従うようになりました。

④ヘブル人文化は「律法による救い」に深く根ざしている

旧約聖書を読むと明らかなように、そもそも律法が与えられたのはイスラエル人に自分の無力を痛感させるためでした。
そしてさらにそれはイエスの身代わりの死を指し示すものでした。
律法(モーセ)と預言(エリヤ)はイエスを指し示しているというのは、そういうことです。
しかしイスラエルの人々は律法が与えられた目的をはき違えてしまいました。
何と律法によって救いに到達することは可能であると勘違いしてしまったのです。
このような状況で慣習に従うということは、深刻な結果をもたらします。
文化そのものがイエスの十字架の救いを否定するものである場合、それに絶対に従ってはなりません。

ユダヤ人クリスチャン達は最終的には福音から落ちていき、律法の中へと戻っていきました。

⑤分離主義カルトと呼ばれる人々も「霊と魂を切り分ける」とか「自我を完全に十字架に付ける」などと嘘・偽りを宣べ伝えている

聖書によるならば、十字架に付けるのは自我ではなく「律法を守ることによって(自力によって)救いに到達しようとする心」です。
分離主義カルトの人々は、これもあれもみな十字架に付けなければならないと的外(まとはず)れなことを言いながら、結局やっていることは自力によって救いを全うしようとしていることにほかならないのです。
このからくりに気づかない限り、彼らは囚(とら)われ人のままですし、聖書が約束する「第二の安息」に入ることもないのです。

◎人生には様々な困難と試練があります。
しかし私たちには「第二の安息」が備えられています。
これに入れるように全力を尽くそうではありませんか!
祝福を祈っています。

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