人格的交わりが癒しと成長をもたらす

現代はインスタントなやり方が、もてはやされる時代です。
しかし私たちが心の傷を癒そうとするなら、また人格的成長を願うならインスタントなやり方を求めてはなりません。
今日はこの問題を皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。

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1.同じ苦しみを体験していることの意味。

①救いには外面的な側面と内面的な側面の二つがあります。

外面的な側面とは「罪が赦される」「義と認められる」「神の子とされる」「永遠の命が与えられる」ということです。
内面的な側面とは「新しく生まれ変わる」ことです。
救いの外面的なものは、罪人である私たちの立場上の変化をあらわしています。
罪が赦されていなかったのが罪赦され、罪人であったのが義人と見なされ、滅びに定められていたのが永遠の命を与えられたのでした。
これに対して救いの内面的なものは私たちの心が新しく造り替えられ、人生全体が変化することです。

②どうしたら心の癒しは起きるのでしょうか?

心が新しく造り替えられ、人生全体が変化したものになるためには、どうしても心の癒しが必要です。
新約聖書のヘブル人への手紙には次のように書かれてあります。

『イエスは神の御前に憐れみ深い大祭司となって、人々の罪を償うために、あらゆる点で私たちと同じようになることが必要だった』[ヘブル2:17]

イエスは私たちと同じになってくださったことにより、私を救うだけでなく、心の癒しと内的な成長を私たちに与えることがお出来になります。

2.共感を伴った人格的交わりなしには、人格の癒しも成長もあり得ない。

①「救って、それでハイ終わり」ではなく、イエスは私たちの救いを全うしてくださる御方です。

伝道大会などで、救いの招致がなされ、勧めに応じて会場の前の方に出て行くと、「はい、あなたは救われました。おめでとう。聖書を読み、教会に出席しなさい」と言われます。
これは多くの求道者にとっては納得のいかないことです。
求道者は心の中で「『救われた』と言うが、私は一体いつ救われたのか?」と思っているのではないでしょうか?
彼らが本当に求めているのは、真に人格的交わりが可能な絶対者と出会うことであるのです。

②どうしたら人格的交わりが出来る真の神様と出会うことが出来るのでしょうか?

多くの人が誤解していることの一つに、神は霊的な存在であるから、私たちも「霊的な気持ち」にならなければならないという思い込みがあります。
「霊的な気持ち」などというものは、どこにもそんなものはありません。
ただ「霊的な雰囲気」を演じることは出来ますが、これは偽善です。

③神と出会おうとするなら、人格的レベルで出会うことです。

人格的レベルといっても難しいことは一つもありません。
最も人格が現されている場所はどこでしょうか?
それは私たちの心の傷があるところ、私たちの悲しみや恨みがあるところです。
普段はマネキンやロボットを演じているような人であっても、そこの処に来ると涙を流さざるを得ない場所です。
このところがイエスと出会う場所となります。

3.人々を助けることが出来る存在となるために。

①私たちは苦しみを避けたいと思いつつ、片方では人々の助けになりたいと願っています。

しかしこれは決して両立することが出来ない願いです。
なぜなら人々の助けになろうとするなら、自分もまたその人々と同じ苦しみを知っている者でなければならないからです。
「何でそんな面倒くさいことをしなければならないのか?御言葉を語って、聖霊が働いて、それで良いではないか?」と言われる方もおられるでしょう。
しかし人々の助けになりたいと願うなら、近道やバイパスを通ろうとしてはなりません。
なぜなら人々が癒されたり成長したりするのは、人格的な働きによるからです。

②イエスご自身が私たちに模範を示してくださいました。

クリスチャンの中にも未信者の中にも、イエス様に対して色々な文句を言う方がおられます。
そのようなとき、ありのパパは心の中で「イエスも同じ御苦労の中を通られたことを、この方はご存じないのだな」と思い、納得しています。

『イエスご自身が試みを受けて苦しむ経験をされたので、苦しみの中にある者たちを助けることが出来る』[ヘブル2:18]

③問題解決の鍵は、私たちが「小さなキリスト」になることです。

これは「奇跡を起こせ」とか「感動的な説教をせよ」と言っているのではありません(勿論それは神の約束ではありますが)。
そうではなくキリストが人々の苦しみを知っておられることによって、人々に心の癒しをもたらされたように、私たちも人々の苦しみを知る者になるということです。
私たちが「小さなキリスト」に徹しきるとき、著(いちじる)しい聖霊の業もまた私たちと共にあるようになるのではないでしょうか。
祝福を祈っています。

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コメント

  1. Jクルス より:

     私は、かつて心の病を患っていましたが、どのような、人との関わりから来る様々な療法も本当の癒やしにはつながりませんでした。
    しかしイエスとの本当の出会いがあったとき、真の癒やしがあり、本気の交わりを持つようになってから、自らが小さなキリストに変えられてくるように思えるのです。
    しかし、このお方とお付き合いするのには、本気の誠実さが必要ですね。
    でも、このお方との本気のお付き合いをするようになってから、人との関わりも、本気で誠実に関わり合えるようになったのですから、まさにこのようなことを、信仰の神秘 とでもいうのでしょうね。

    • arinopapa より:

      Jクルスさん、こんばんは。
      コメントをありがとうございます。

      ○人間的に見える療法であっても、それは神が人にお与えくださったものです。
      ストレプトマイシンを飲めば結核が癒されるように、人間的に見える精神療法であっても適切に用いられるなら、それは癒しをもたらす神の管となりえます。
      このブログを多くの心の病を持った方がご覧になっておられますので、精神療法に対して否定的であるかのような誤解を与えていけないと思い、コメントさせていただきました。

      ○多くの苦しみに遭うほど、わたしたちは自分の本当の姿を認めざるを得なくなりますね。
      それで後から振り返ってみると『苦しみに出会ったことは私にとって幸いでした。なぜならそのことによって私は神の御言葉を学ぶことが出来たからです』との告白に導かれます。

      またコメントしてください。お待ちしています。