ユダとペテロの本質的違いとは?

同じイエスの弟子団のメンバーとして活躍していたペテロとユダですが、その人生の終わり方は対照的でした。
なぜ同じ出発をしていながら、人生の最後が天と地ほどに違ってしまうのか、このことを考えてみたいと思います。

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①ペテロはイエスを否認した自分自身に気づきを得たとき、声を上げて泣きました。

人は誰でも、空元気(からげんき)で突っ走ってパンッと破裂して、そのあとは惨めにも自分の実力相応の現実に直面しなければならないときが必ずやってきます。
ペテロも自分には迫害に抗する信仰の実質がないとイエスにあらかじめ言われていたにもかかわらず、そのイエスの言葉をさえぎっての結末がこのありさまでした。

②ユダはイエスが捕らえられたのを見ているうちに段々と後悔し始めました。

その後悔の理由は「罪のない人の命を売った」ということでした。
その後悔している気持ちを神に打ち明けないで、イエスの敵である律法学者たちのところに行って打ち明けました。
そうしたところ律法学者たちに「私たちにあなたの内面を打ち明けてもらっても困るのだが」と言われてしまいます。

③ペテロはイエス様と人格的交わりをもっており、そのイエスを裏切ったということで「友を裏切った」ことへの嘆(なげ)きがありました。

これに対してユダはイエスとの人格的交わりを持っていなかったことが推測されます。
ユダの後悔は自分が友であるイエスを裏切ったということにあるのではなく、単に罪のない人を売ったということにありました。
これでは確かに悔い改めに導かれるはずもありません。

④人格的関わりを持っているかどうかは、どうして知ることが出来るか?

簡単な見分け方があります。
それは相手の人が怪我をして苦しんでいるのを見たとき、自分もその痛みを感じるなら、あなたはその人と人格的関わりを持っています。
そうではなく「あぁ、痛そうだな。お大変だな」と感じるのであれば、あなたはその人と人格的関わりを持っていません。
これは丁度、病気で苦しんでいるわが子を見て、「出来るなら自分が代わってやりたい」と泣きながら言う親の気持ちと同じです。
親は子供が病気で「痛いよ~。苦しいよ~」と泣いているのを見ると、自分が痛くなり、苦しくなります。
これは親が子供との関係において人格的関わりを持っているからです。

最近、育児放棄をして子供を死に至らせる親の事件が世間を騒がせていますが、これは何らかの事情で親が子供に対して人格的関わりを持つことが出来なかったのが真の原因です。
(勿論、だからと言って人格的関わりを持てなかった親は育児放棄をしても仕方がないなどと言っているのではありません。そのような親は人格的関わりを持つように自覚的に努力すれば良いだけの話です。ですから、その努力を放棄した親に弁解の余地はありません。)

⑤ペテロは悔い改めに導かれ、ユダは単なる後悔に止まりました。

この違いはどこから生まれたのでしょうか?
それは自分と人格的関わりがあると感じられるかどうかが、悔い改めと後悔の分かれ目になります。
治療事故で患者を死に至らせたことをお詫びする会見の席で、ニタニタと笑いながらお詫び会見をする医師がおりました。
この医師が死に至らせた患者に対して人格的関わりを持っていないのが、誰にも分かる会見でした。
これとは反対に子供が事故で亡くなった学校のお詫び会見で、号泣しながらお詫びしている教師がおられました。
この教師が亡くなった生徒に対して人格的関わりを持っていたことが、テレビを見ているこちら側にも伝わってきました。

◎私たちにとってイエスは救い主どまり(不敬虔な言い方で申し訳ないのですが)の存在、つまり人格的関係を伴わない間柄(あいだがら)でしょうか?
それとも私たちにとってイエスは最も親しい友であるのでしょうか?
主の復活を記念して礼拝するこの日、このようなことに思いを馳(は)せてみたいものです。
祝福を祈っています。

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