サウル王が訪れた霊媒の女

サムエル記第一の終わりにはサウル王が霊媒の女のもとを訪れたことが記されています。
今日はこの問題を皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。

1.サウル王は国内から霊媒者たちを追放したにもかかわらず、自分が窮地に陥ると霊媒の女のもとを訪れています。

これは何を現しているのでしょうか?

①全てを支配なされる神の主権を認めていないということを現しています。

サウルの中では神の戒めを守るということと、その戒めは全てを支配なさっておられる神から出ているということが繋(つな)がっていませんでした。
ですから何でもない平穏なときには「結構な教えじゃありませんか!」とばかりに諸手(もろて)をあげて大賛成するのですが、自分自身が追い詰められると手のひらを返すように霊媒のところでもどこでも行っちゃうのです。

②神への畏れを持っていないということを現しています。

神への畏れとは、神が全てを支配しておられるゆえに、その神の戒めに反するのは神への反逆になると知っていることです。
サウル王の信仰の中には、神が全てを支配しておられることを信じることも、神への畏れもありませんでした。
その故にサウル王はどんな罪でもやってのけることが出来たというわけです。

③神の主権を認めるとはどういうことでしょうか?

これに対してダビデは二度もサウル王の命を狙う機会があったにもかかわらず「神がお立てになられた王を先走って人間的な手段で血祭りにあげるようなことをしてはならない。そんなことをすればその呪いは今度は自分たちに降りかかってくる」と言いました。
これが真に神を畏れているということであり、全てを御支配なさる神の主権を認めているということです。

2.どうしたら神への畏れを持つことが出来るでしょうか?

①自分の無力を認める。

誰も好(す)き好(この)んで罪を犯す人はいません。
多くのクリスチャンはペテロのように「他の人があなた(イエス)を裏切ったとしても私はあなたを裏切りません。もし死ななければならないのでしたら死にます」と心の中では思っています。
しかしいざその場に立ってみると、膝はガクガク震えるし、声も掠れてしまうほどに恐れに打ちのめされてしまうのです。

こうならないための秘訣は普段から自分の本音を知ろうと努力することです。
人間というものは普段は建前で生きています。
建前とは「こうあるべき。こうあるのが当然」という考えであり、この考えには強制力があります。
それで人々は「こうあるべき」という「べき論」が自分を支配していることに気づいていません。
そういうわけで絶体絶命の大ピンチに遭遇(そうぐう)して初めて自分が建前に支配されていたことに気づくことになります。

②神になら、こんな自分でもあっても助けることが出来ると信じる。

クリスチャンの中には「私は弱い者です。ですからそんな迫害には決して耐えることが出来ません」と真顔で仰る方もおられます。
しかし信仰とは「人には出来ないが、神にはどんなことでも出来る」と信じることです。
もし自分の弱さを認めるところに止まってしまって、その先を行こうとしないなら、それは信仰とは言えません。

ありのパパもかつては「出来ないものは出来ないのと違う?」などとお気楽に考えていた時期がありました。
しかしAAの人々に出会って考えが変わりました。
アルコール依存症者であるAAの人々は「酒を再飲酒しても仕方ない」と言うことが出来ません。
なぜなら再飲酒すれば、そこには死が待ち受けているからです。
ですから彼らは自分の無力を認めた上で「神様にならこんな私を救うことがお出来になる」と命かけて信じるのです。
これを見て、聖書の神様を知っているクリスチャンが堅い信仰を持てないはずはないと考えるようになったのでした。

③自分の考え方や習慣を日々、神の御心に従わせていく。

人間というものはいざとなると、その人が普段の生活でやっているやり口が出てくるものです。
普段は建前と本音を使い分けているような人であっても、存亡(そんぼう)の機(き)には本音が丸出しになるものです。
すべてのクリスチャンにこうなってしまう危険があります。

こうならためにはどうしたら良いでしょうか?
それは日常生活の中で私たちの意に反して起きてくる様々な出来事に対して地(じ)で反応するのではなく、いったん立ち止まって「私がどのような対応をすれば神の栄光を現すことになるだろうか?」と考え、実行することです。
これが真(まこと)の信仰であり、クリスチャンの人格的成長ということであるのです。

◎キリシタンの人々は火のような迫害を耐え抜き、試練の中にあっても神様がお喜びになる選択をなすことが出来ました。
現代に生きる私たちも同じ道を歩みたいものです。

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