柄の悪い夫と出来の良い妻

①サムエル記第一の25章には大変興味深い物語が記されています。

一組の夫婦が登場します。
夫の名前はナバルと言い、妻はアビカイルと言いました。
夫のナバルは聖書によると「頑迷で、素行も良くなかった」とあり、彼の使用人には「ご主人様は頑固な御方ですから、誰もおいさめすることが出来ません」と言われています。
まさに「どれだけ悪く言うか」というぐらいな言われようです。
それに比べて妻のアビカイルは聖書によると「才色兼備(さいしょくけんび)の婦人であった」と記されています。
何故このような聡明な婦人がくだらない男と結婚したのだろうかというのは率直な疑問です。
この男は金持ちであったようですから、その関係でどうしても結婚しなければならない事情があったのかもしれません。

②六百人の手下を連れて彷徨(さまよ)うダビデは恥をしのんでナバルに食べ物をくれるようにお願いします。

このとき、ナバルは散々ダビデの部下の若者たちを罵(ののし)ります。
彼にしてみれば、何で自分の大切な財産をどこの馬の骨とも分からないような連中に恵んでやらねばならないのかということだったのでしょう。
「人の気持ちが分からない」というのは世の中を生きていく上で致命的な弱点となります。
ダビデは人気絶頂の身分から王に反逆者として追われる身に一瞬のうちに転落しました。
そのダビデの精神状態を考えるなら、彼に対して神経を逆撫でするようなことをすればダビデは逆上するかもしれないと考えるのが当たり前のことです。
しかしナバルはそうしませんでした。
そうしなかっただけでなく、傷口に塩を擦り込むように彼らを罵りました。
このとき、二人の聡明な人物が危機的状況を救いに導きます。

③使用人の一人が一部始終をその場にいなかった妻のアビカイルに報告しました。

その報告を聞いてアビカイルはすぐさま行動を起こします。
よくあるような「困った。困った。どうすれば良いのか?」と右往左往するだけの婦人ではありませんでした。
皆さんは、何故アビカイルはこんなにも即座に行動に移すことが出来たと思われますか?
ありのパパが思うのに、彼女は普段から「こうなったら、こうしよう。ああなったら、ああしよう」と頭の中で常に計画を立てるタイプの婦人だったのではないかということです。
多くの人は「こんなことが起きるとは想像もできなかった」と言います。
しかし聖書は「この世にある試練で人が今まで受けたことのない試練はない」と言っています。
どういうことかというと、ぼさ~としていないで何が起きても大丈夫なように準備万端に整えておくのが大切ということです(笑)。

④アビカイルは驚くほどの食料を用意して、自分の方からダビデに会いにいきます。

そのダビデはというと「明日の朝までにナバルの家の者どもを一人も生かしておくことはしない」と言いつつ、一族郎党を引き連れてナバルの家に向かっていたのでした。
アビカイルはここでも少しもひるむことなく言わなければならないことを簡潔に、しかも言い漏らすことをせずに話尽くします。

a.まず「ごめんなさい」と謝りました。

ダビデたちが良くしてくれたにもかかわらず、恩を仇(あだ)で返したことを謝罪しました
謝られて悪い気がする人はどこにもいません。
彼女は地べたに這いつくばって謝りました。
これは彼女が本気で謝っていることを示しています。

b.ダビデの現在の試練は「『主の戦い』を戦っておられるのです」と言いました。

どんなに怒り心頭に発している人であっても「今の苦難は「身から出たさび」などではなく、「主の戦い」を戦っているのにほかならないのです」と言われたら、どんなに心打たれるでしょうか。
ありのパパなら号泣すること請け合いです(笑)。

c.馬鹿な男を殺しても、あなたの名前に傷がつくだけだと諭します。

この馬鹿な男こそ自分の夫なのですから「よく言うもんだ」という気がしないでもありませんが、彼女は必死です。
多分彼女にとって夫一人のことよりも、ナバルの下で働く人たちのことを考えたのでしょう。
「皆殺しにされてたまるか!」という気概にあふれていたのだと思います。
人というものは不思議なもので「そう言われてみると、そうかもしれない」と考えを変えることがよくあります。

⑤この物語が私たちに教える教訓とは?

a.聡明な使用人はどこにいるのでしょうか?

そうです。教会の長老会の中に、役員会のメンバーの中にいます。
牧師が聖書には強くても、人の気持ちが分からない人であるとき、また自分の弱さを現すことが出来ないタイプの人であるとき、「弱さを出して良いんだよ」と牧師を抱きしめてあげる長老・役員です。
間違っても「まず牧師が私にしてくれたら、私もそうする」とは言いません(笑)。

b.聡明なご婦人はどこにいるのでしょう?

そうです。もちろんあなたの御家庭に一人おられます。
夫がまさに愚かというほかはないような言動を行ったときでも、切れてしまって同じレベルで戦いを挑むようなまねをせず、「そう言わなければならないあなたの気持ちが良く分かる」と言います。
怒りの拳を握りしめているかもしれませんが(笑)。

c.組織の中でごく少数であっても聡明な人々がいると、そのグループは伸びます。

カルトが何故ダメかというと、それは全構成員に同じ反応をすることを強制するからです。
伸びる組織とは、大多数の者たちとは異なる反応をする者によって危機的状況を脱することが出来るのです。
それを全構成員に同じ反応を強制したら、ごく少数の者たちが活躍する機会がなくなってしまいます。
これは戦前の我が国の実情でもありました。
このまま無謀な戦争を行ったら、国が滅びると分かっていたのに、全国民に同じ行動を強制しました。
その結果として、アジア諸国への癒しがたい傷を与え、自分の国には原爆を落とされ、祖国が焦土となってしまいまいした。

◎私たちお互いは聡明な使用人、聡明な家庭人として振る舞うことを神に期待されております。
その神のご期待に沿いたいものです。
祝福を祈っています。

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コメント

  1. じゃんじゃん より:

    アリのパパさん。
    以前にもアビガイルとナバルの物語が、サムエル記になぜ、挿入されたのかと考えました。
    アビガイルはパテシェバなどと違って、あの物語以外では重要な役割を果たしていません。
    生まれた子どももとくにダビデ王朝で重要な役割を演じなかったようです。

    牧師の解説などでは、ナバルは頑迷でばかな男。
    アビガイルは聡明で美しく、とくに、神の油注ぎを受けたダビデの価値を知っていた点を、「賢さ」とするようです。(もちろん、そのように言わない方もいます)
    でも、私は、ナバルが馬鹿であったとは思えません。
    馬鹿であれば、大きな牧畜業をきりまわし、たくさんの使用人を使って「大事業」を切りまわせるでしょうか。
    ナバルがダビデを追い払ったのは、なにより、時の権力者サウル王の目を気にしたからではないでしょうか。
    サウルは、ダビデを助けたと言うので祭司でさえ一家を含めて惨殺するような「狂った」状態でした。
    ナバルがそのような情報、世の中の動きに通じていたのは事実でしょう。
     
    アビガイルは聡明だったでしょうし、よい主婦だったかもしれませんが、彼女がすぐさま、たくさんのご馳走を用意できたのは、ちょうど羊の毛の刈り取りの祝いのご馳走を準備している時と重なったからでしょう。
    また、夫ナバルがダビデの使者をののしって追い返したことを、それを見ていたナバルの「若者」がすぐに、彼女に告げてくれたことも大きかったでしょう。

    大きな視点で見ると、結局、ダビデには神様がともにいてくださって、このような窮地で助けてくれる女性が現れたこと、彼女がのちにダビデの三番目の妻になることを記すための物語かと思うのです。

    私はこの箇所を小説「つむじ風の谷」として書きましたので、アビガイル、ダビデ、ナバルには、とても関心があります。
     お時間のお許しになる時にでも、上記のウエブサイトから、拙作をご覧下さればさいわいです。
    ずうずうしくお願いですが、ご批評いただければ、なお、感謝です。 

    • arinopapa より:

      じゃんじゃんさん、こんにちは。
      コメントをありがとうございます。

      では早速反論に行ってみたいと思います(笑)。
      ○ナバルのことを聖書自身が何と言っているかを見てみると「頑迷で、素行も良くなかった」と記しています。
      その人が愚かであるかどうかという判断は、まず聖書が示しているところによるのが良いと思います。
      勿論、その上で「あえて自分はそう思わない」というのであれば、それに他人が口出しをするものではありません。

      ○「馬鹿に事業が出来るか?」と言われますが、出来ると思います(笑)。
      しかしその結末は惨憺たるものにならざるを得ないと思いますが。
      もしナバルに先を読む目があったなら、ダビデが遣わした若者たちを罵ることはしなかったでしょう。
      また彼が自分の対応によってどのような事態を生じるかということを予想だにしていなかったことは、妻のアビカイルがことの顛末(てんまつ)を語って聞かせると「色を失って、黙ってしまった」ことを見ても明らかです。
      先を見通すことが出来る人が、聡明な事業家です。
      この点から見てもナバルを馬鹿ではないということは出来ないと思いますが、如何お考えでしょうか?

      ○じゃんじゃんさんは、ナバルの対応はその時代の事情を考えると仕方なかったと言われます。
      しかし本当にそうでしょうか?
      私は決してそのようには考えません。
      「人の目を気にした」ということは、それ自体が罪です。
      聖書が言っているように「彼らは神よりも人の目を恐れた」とあるように、そのような人々の結末は滅びです。
      ナバルはその滅びをこの世において受取りました。
      ですから決して「人の目を気にしては」いけないのです。また仕方なかったと正当化してもなりません。

      ○神が共にいてくださるのはダビデだけではありません。
      すべての人に神が共にいてくださるのです。
      問題は共にいてくださる神を受け入れるか、受け入れないかというところにあります。
      この物語が私たちに教えようとしていることは一体何であるのでしょうか?
      私はこの物語を通して全ての人がナバルのようではなくアビガイルの様な生き方を選び取るようにと教えていると受け止めます。
      如何お考えでしょうか?

      またコメントしてください。お待ちしています。