どうやって怒りをコントロールするか?

ありのパパはかつては癇癪(かんしゃく)持ちでした。
それが今では日常生活でコントロール不可能な怒りを感じることが無くなってしまいました。
そうなったのは具体的な方法を見いだしてそれを実践したということが大きいと思います。
今日は皆さんに、どのような方法によってコントロール不可能な怒りから解放されたのかをご紹介したいと思います。

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①自分が他人のために生きていないように、他人もまた自分のためには生きていないということを確認する

顔はニコニコ笑っていても心は怒りが瞬間的に沸騰するということがありました。
たとえばエレベータでご婦人と一緒に乗っているとき、降りるとき「お先にどうぞ」と目で合図すると、ほとんどの方は「すいません」と言われます。
しかし中にはさも当たり前のような顔をして知らん顔をして降りていく人もいます。
そのような時、実はありのパパは心の中では怒っていたのでした(笑)。
「非常識な人だ」と感じるのは当たり前ですが、怒りを感じるのは正常なことではありません。
それでどうやって解放されれば良いかを考え、アイデアを実行しました。
それは「ありのパパも他人のために生きているのではなく自分のために生きている。人様も同じだ。だからありのパパが示した親切に人様が感謝をしなくても、どうと言う事はない。神様、このことを教えてくださり感謝いたします。」
このように考え、祈るとまるで憑き物が落ちたように自然体に戻る事が出来るようになりました。
このような事があるたびに意識的に上の文章を唱えていましたが、何回か繰り返しているうちに人に親切をして感謝されなくても何とも思っていない自分に気づくようになりました。

②怒りの原因になっているものを処理する

ありのパパはアダルトチルドレンであり、両親との関係に問題を抱えています。
その両親と会ったあとで怒りが爆発している事に、あるとき気がつきました。
これは微妙な問題であり、読まれた方が「自分も同じようにしなければならない」と受け止められると困ります。
問題は皆それぞれ皆違います。
ですから解決方法も千差万別であるのです。
ありのパパはこのようにして解放されたというのに過ぎません。
解決方法は親を赦したということです。
真実を言えば赦したというのとはちょっと違います。
「可哀想に思うようになった」というのが一番近いと思います。
どうして可哀想に思えるようになったかというと、会うたびに生育歴を聞かせてもらうようにしたのが大きかったのかもしれません。
自然にそのような感情が湧き出てくるようになりました。

③怒りを爆発させることを正当化しない

ありのパパには怒りが爆発するようになった切っ掛けがありました。
それはドーナッツ屋さんにいるとき、やくざとやくざの情婦がドーナッツ屋のアルバイト店員に難癖(なんくせ)をつけていたのを見た事でした。
その光景を見ていて、ありのパパは全身に怒りが充満するのを感じました。
それで身の危険をも省みず、そのやくざと情婦に向かっていきました。
ありのパパの余りに剣幕に、やくざも情婦も押され気味で段々とおとなしくなってきたところで、駆けつけた警察官に引き渡されました。
店員の方からも感謝され、怪我もせず万事事(ばんじこと)なきを得たのですが、それが切っ掛けで怒り依存症とでも呼ぶべき世界に引きずり込まれたのでした。
たばこを吸うニコチン依存症者も、酒を手離せないアルコール依存症者も、あるのは自己正当化の言い訳ばかりです。
ありのパパも「それが正しい事であれば、怒りを爆発させても良い」と間違った理解を思い込んでしまったのでした。
怒りを爆発させなくても正しい事を行っている人は、それこそ数限りなくおります。
ですから「それが正しいかどうか」は怒りを爆発させても良い理由には決してなりません。

④怒りを抑えようとすると怒りは必ず爆発します

ですから怒りを抑えようとしてはなりません。
怒りを抑える事はテクニックとしてもまずいやり方ですし、それより何より怒りを抑えようとしているとき心の中で「怒っているお前は生きていてはいけない存在である」と自分自身に向かって言っていることが多いのです。

⑤神があなた自身をありのままで愛してくださったように、あなたもまた自分自身をありのままに受け入れる

神はありのままのあなたを、怒りん坊のままのあなたを「そのままで良い」と言って受け入れ愛してくださっています。
ですから私たちもまた自分自身に向かって「怒りん坊のそのままで良い」と言ってあげることです。
そのようにしていくとき、私たちの内なる自己、即ち自分自身は無限の成長に向かって歩み始めるようになります。
そうなるまで「早く芽を出せ柿の種」とばかりに自分自身に向かって無条件の受容体験を提供し続けることです。

◎怒りをコントロールし、平安に満たされた人生を歩まれますように祈っています。

コメント

  1. putti より:

    ありのパパさんこんにちは。

    怒りは、抑圧するほど(悲しみなどもそうですが、怒りは特に)吹き出すときの勢いが倍増し、元々あった原因がそれほどのことでなくても(冷静になってからそうおもっても)感情の中にあるときはすごい勢いで沸騰します。
    怒りや悲しみをプラスのエネルギーに変えて、良い方向に使いましょうなどというような言葉は、こんなときは殺気を覚えるほどです。
    怒りがすぐさま生きるためのいいエネルギーに変わるようだったら、精神の病なんて無くなってしまうでしょうに。
    それをどうしたらいいのか、祈りに変えてもなかなか、噴火は収まらない。
    しかも怒りというのは感情の中で一番エネルギーを消耗するもののような気がします。
    だからこそ、私自身もよく感情の沸点に達しては神さまに瞬時で祈り、ときにはそれは狂気を伴った叫びににた訴えになることもあります。
    私は人との距離感で、最近怒りを覚えることがいくつかありました。それもありていな怒りではなく、怒り心頭、もう金輪際縁を切る、というようなものでした。
    自分を簡単に裏切るような人、自分に暴言を吐くような人を、事前に見抜けなかった自分が悔やまれてしょうがなく、人を見る本当の目がないのだろうか、などと思ってしまいました。

    長くなってしまいましたが、怒り、は悲しみよりも、扱いにくい感情なので、また何かあったらブログに書いてほしいと思っています。

    • arinopapa より:

      puttiさん、こんにちは。
      コメントをありがとうございます。

      ○肝心なことは、普段の生活の中で怒りの原因がどこにあるのかを突き止めることでははないでしょうか。
      それをしない限り、怒りの感情に振り回されるのではないかと思います。
      これは心の深いところに隠されているものであるゆえに、探し出すのは骨の折れる作業です。
      しかしこれをなし遂げるなら、新しい次元で人生を送ることが出来るようになります。
      祝福を祈っています。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  2. putti より:

    ありのパパさん、
    普段の生活の中の怒りの爆発元、とは、難しい質問です。
    一言で言えば家族関係からできた思考回路や、家族との様々な関係より自分の中に出来上がっている価値観(思い込みや、実際にあった出来事も含めて)からでてくる、果たされなかった約束からくる恨み、悔しさ、または自分が欲しかったもの(愛情)にたいして、痛いものしか与えられてこなかったことからくる怒り、それを苦労せずとももともと持っている人に対する怒り、(一方的ではありますが恨みに似た感情)でしょうか。
    でもそれが出てくる状況というのは、そんなに単純ではなく、思いもしなかったときに出てくるものです。
    それに関しては分析しきれていません。

    • arinopapa より:

      puttiさん、こんにちは。
      コメントをありがとうございます。

      怒りが出てくる原因については特定できておられるようですね。
      次の課題は、心の奥底にある怒りが、どのような場面で出てくるのかについて、関係性を把握することだと思います。
      たとえば人に茶化されると怒りが出てくるのであれば、それは自分の子供時代に親に真剣に対応されなかったことへの恨みが誘発されて表に出てきたのを気づくということです。

      一人一人違った道を通って癒され成長していくものであると考えています。
      ここで申し上げていることは私個人がどのようにして気づきを得て癒されて行ったかということに過ぎません。
      もし参考になるようでしたら、それは望外の喜びです。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  3. putti より:

    そうですね。
    原因はそのときその状況によって様々ですが、怒りを感じたときに、私はその人に対しての心の扉を閉じてしまうようです。
    その扉は、以降再度開かれることはありません。
    一度許せないと感じてしまうと、もう二度と、って思うんですよ。
    他からしてみたら恐いですよね。
    それを友人にしてしまったときに、あぁこれは、自分の家族にされて来たことだなって、客観的に見られたのがつい最近(ここ一年ないくらい)です。
    失敗を許されない家庭環境に育ったので他人の失敗(ごく小さなことでも)が受け入れられないのです。
    私は罰を加えられていましたので、なおさら、関係を断つということでもって相手にたいして制裁を加えているような感があります。
    でも、その相手を好きだったことには変わりはないので、自分自身が一番痛いわけであります。

    • arinopapa より:

      puttiさん、こんにちは。
      コメントをありがとうございます。

      怒りを感じた相手に対して心を閉ざす(関係性が消えてなくなってしまう)というのは、私もよくやりました。
      それしか手段がなかったというのが本当のところですが。

      それとともに私の場合は、相手に心は開くだけではなく、依存もしていたということに気づきました。
      依存していたから、その依存が裏切られて、それゆえに怒りが出てきているのだと知りました。

      結局、私の場合は以下のことが鍵でした。
      一つは怒りが出てくるのは、相手に依存していたから。
      子供のときの自分が養育者に依存するのは当たり前のことですが、大人の私が人々に依存するのは不正常なことです。
      このことに気づいたとき、人に依存するのを止め、自律した存在として生きていくように努めるようになりました。

      puttiさんに、なおなお神様の導きと光が与えられ、怒りをコントロールする問題を通して、無限に成長することの出来る神の恵みの中を豊かに歩まれますようにと祈ります。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  4. putti より:

    ありのパパさん

    なるほど。
    私自身も、パパさんのおっしゃることと遠くなく、他との境界線が原因で共依存になっている(たとえそれが友人関係で、そんなに重いものでなくとも)後になって冷静になると判断がつきます。
    自分の母が自分に対してして来ていた、自分の思惑と外れた言動に強く反応し、それが裏切り行為に感じたり(常にではありませんが、ひどいときは)します。
    私の母は、私が彼女の思い描いた人生を歩むのをやめ、自分のことを考え始めたとき、「裏切り者、もう二度とうちの敷居をまたぐな、今後一切お前のことは娘とは思わんのでそのつもりでいろ、親子の縁を切る」とさんざん罵られ、悪者扱いしました。
    そういった母との尋常じゃなかった関係は私に罪悪感と、そして世の中に対して斜めのものの見方をする、人を信頼できない、というような決定的な自分の深い傷となって残り、今でもそれに悩まされ振り回されてしまっています。

    何度も自分の無力(人間関係におけるコントロールについての、無力)を受け入れるつもりでステップを踏みました(アラノンの方法で)が、やはり根強く残っているみたいです。

    何に対して怒りを感じるか、という一つ前の質問に付いては、そういうことでこれが答えです。
    人間関係に関して、(今まで母のようにならないと思って来たことが、母からされたことをしていることによって)いびつに歪んだ関係が多く、健康的な関係だと逆に不安に感じてしまう。
    何かあるんじゃないか、と思ってしまう訳です。
    それに対して相手が窮屈だったり、自分の思ったことと違うことをされると、それが昔の傷を思い出させ、その怒りが爆発するのだと思います。

    長くなってしまいすみません。

    • arinopapa より:

      puttiさん、こんばんは。
      コメントをありがとうございます。

      「自分の無力を認める」ということについてですが、その対象を何にするかということは重要なことです。
      アル中の方なら、文句なしに「飲酒について無力である」ということで決まりな訳ですが、ACの人の場合は話が違ってきます。
      ACとは生き方全般について生き辛さを抱えた人のことを指しますから、その人の置かれた環境や生育歴によって一人一人無力の対象が違うわけです。
      もしputtiさんが「人間関係コントロールについて」を無力の対象としても、それがうまくいかないということであれば、別のものに無力の対象を変えてみるのも一つの手であると思います。
      たとえば人間関係をうまくいかなくさせる障害物を無力の対象とするとかです。
      (もう一つは、ご自身ではうまくいっていないと感じてはいるが、実際は少しずつコントロールできるようになっているということもあります。)

      またコメントしてください。お待ちしています。

  5. putti より:

    ありのパパさん

    お返事ありがとうございます。
    色々、怒り(無力を受け入れるための)の他の理由を考えてみました。
    人間関係をうまくいかなくさせる原因となることを対象にする、ということはちょっと思いつかなかったので、やってみようと思います。
    自分が欲しかったけれど持っていないもの、家族関係とか、よきパートナーとの関係とか、それ以外でも色々あります。
    それらに対して、どこまでがコントロール可能で、どこからが無理かということは、はっきり境界線を引かないと、分かりにくいですよね。
    例えば、お金に対して無力だ、って思っていたとして、転職を考えるとしますよね。今の生活はきつい、収入アップさせよう、と。使うことに対しては無力だと認めていても、入ってくることに関しては無力ではない。(私はそんなに使うほど持ってないですが) …ごめんなさい、分かりにくい例ですね。
    何に的を絞って無力を認めればいいのか、具体的にならないのです。
    ちょっと分かりにくい質問だったらすみません。

    • arinopapa より:

      puttiさん、こんにちは。
      コメントをありがとうございます。

      「お金に対して無力である」は範囲が広すぎて、焦点があっていないのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
      買い物に対して無力であるのか、貯金に対して無力であるのか、お金の魅力に対して無力であるのかか、色々あります。
      丁度自分にフィットするものに焦点を合わせるのが肝要かと思います。
      今の自分にとって一番やっかいな問題となっているものに、的を絞ります。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  6. マッキー より:

    ありのパパさん、こんばんは。

    今日は焼鳥屋で、頑張っている私に対するご褒美として(自分で言うな!?←自分ツッコミ)束の間の自由を満喫しており、前のブログ記事に続いて連続投稿、すみません。

    Puttiさんとの深いコメントのやり取りの後でなんですが…。

    私もドーナツ屋さんではありませんが、ドヤ街に面したコンビニで丸っきり似たようなことがありました…。私の場合はヤクザ者を怒っている間にパトカーが来たのではなく
    ヤクザ者をコンビニから追い出して殴り倒した後、安全靴(つま先に鉄板や強化プラスチックが入っている靴)でぼこぼこに蹴りまくって、動かなくなった後にパトカーが来ましたが…。(もちろん逃げた。)

    今更ですが、探し出して謝り、償いをしたいと思いました…。

    • ありのパパ より:

      おはようございます、マッキーさん。
      コメントをありがとうございます。

      「もちろん逃げた」って何ですか(笑)。
      12ステップの埋め合わせに最適な事例ですね。
      マッキーさんが12ステップに取り掛かるのを首を長〜くしてお待ちしています。

      またコメントしてください。お待ちしています。