再臨の時の裁きとは?

今日は皆さんとご一緒に、再臨の時イエスがどのような基準で人々をお裁きになるかを見てみたいと思います。

①日常生活をどのように過ごしたかが、裁きの基準となる。

『あなたがたは自分では気づかなかったでしょうが、わたしが飢えていた時に食べさせてくれ、わたしが渇いていた時に飲ませてくれ、旅人であった時に宿を貸してくれ、裸であった時に着せてくれ、病気であった時に見舞ってくれ、牢獄にいた時に訪ねて来てくれました。』[マタイ25:35,36]

a.イエスを信じる者が食べ物・飲み水・衣服がなくて困っている時、それらの物を提供する。

教会は今までも熱心にこのような救援活動を行ってきました。
いつの時代でもこれを批判する人々がいます。
いわく「社会のシステムを変えずに、慈善活動ばかりしていても無意味である」という主張です。
しかしこれらの人々は次のことを忘れています。
それは教会が助けなければ死んでいたかもしれない人が、たとえ一人でも生き残ることが出来るなら、それは神の御前で意味のあることだということです。

b.信仰の故に迫害され、難民となっている人々に住むところを提供する。

旅人に宿を貸すというのは、何も若い旅人に教会の寝床を提供するということではありません。
そのような人はユースホステルにでも行けば良いのです。
初代教会の時代には教団制度が発達していなかったこともあり、文字通りの着の身着のままの巡回伝道者と呼ばれる人々がおりました。
これらの人々は信者の家を宿として、息つく暇もなく御言葉の宣教に勤しんでいたようです。

現代ではこのような巡回伝道者はいません。
もし信者の家に泊めてくれると言われても「いや、私はホテルの方が良い」と言うでしょう(笑)。
しかし現代には別の需要があります。
それは信仰の故に住む所から追われた人々です。
インド・パキスタン・イラク・パレスチナでは以前からキリスト教徒に対する故無き迫害がありました。
そうして今はエジプトのコプト教徒が正当な理由もなしにテロの対象となっています。
私たちクリスチャンはこのような人々に対して住む所を提供する必要があります。
もし「コプト教徒って、本当のクリスチャンなの?疑わしい」などと言って、救援の手をさしのべるのを躊躇するような人がいたら、神が裁いてくださるように(笑)。

c.病気の人を見舞う。

クリスチャン同士の交わりを教会内に限定してはなりません。
病気で入院したら、お見舞いに行ってあげることです。
もちろん知恵深く振る舞うことが大切です。
長居しないこと、大きな声を出さないこと、癒しの希望を配慮なく押しつけないなどは心がけておかなければならないことです。
ある人はお見舞いに来る人が「大丈夫、きっと治る」と言うので、言われるたびに心が傷ついたということです。
言っている人は案外お気楽に無責任に言っているものですが、言われている本人はたまったものではありません。

d.信仰の故に牢獄に捕らわれている人々のところに行って面会する。

戦前、ホーリネス教会の教職が弾圧され、牢獄に囚われの身となったとき、面会に来たのは家族だけだったといいます。
信仰の故に牢獄に捕らわれている人々は世界中に何万といます。
その多くが北朝鮮と中国に集中しています(中国では近年になって多くが釈放されつつあるという情報もあります)。

②マザー・テレサのこと。

福音派教会の中でも格別に熱心な信仰を誇っているように見える人々の中には、マザー・テレサを悪く言う人がいます。
このような人々の書いたものを読んでみると、大抵は的外れな主張に終始しています。
人は光が余りにまぶしいと目をつぶってしまいがちです。
目をつぶるとは、詭弁を用いて有ることを無いと言う、白を黒と言いくるめるということを指しています。
しかし私たちお互いはそのような罪に陥ってしまうのではなく、かえってマザーから社会実践を学びたいものです。

③信仰の熱心は同信の者に対する愛の行為として現れるのでなければ意味がない。

『行いの伴わない信仰は死んだ信仰です』

「行いは重要ではない」と戯言を言う人がおりますが、そんなことはちっともないのです。
かえって本当に救われていたら、必ず行いが出てくるものであるのです。
そういうと「自然に出てくる行いは良い。しかし自分から出てきた行いはダメ」と寝言を言う人もおります(笑)。
人間は弱い存在であり、一体どこの誰が自然に行いが出てくるというのでしょうか?
そんな人が一人でもいたら教えてほしいものです。
パウロは「私は自分を打ちたたいて自分を従わせる」と言いました。
私たちはパウロに習う者でありたいものです。

◎周りの人々の中にキリストを見いだし、そのキリストに積極的に仕えていく者となりましょう。
祝福を祈っています。

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