あなたは高価で尊い

1.もしあなたが隣人を大切にしていないとするなら、それはあなたが自分自身を大切にしていないからです。

人は自分自身を大切にしている分だけしか、隣人を大切に出来ないのです。
しかし例外もあります。
それは虐待を行った両親や、カルト教会で信仰という名の虐待を行った牧師に対しては、愛そうとする必要がないということです。
セルフイメージの低い人は、こんな明々白々なことであっても、愛せない自分を責めてしまうことがあります。
そしてその弱点を虐待者が利用するという悪循環の構図が存在します。

2.自分自身の価値に気づいていない人は、神に対しても、人々に対しても取引をしようとします。

①人々に対する取引とは、自分自身に価値がないと思い込んでいるので、その自分から目をそらすために人々を利用するということです。

「何何してくれたら、何何してあげる」というのが一般的なやり口です。
「結婚してあげたら、幸せにしてくれる?」と相手に聞いたことのある女性は多いのではないでしょうか?
しかしこのように聞いた人で幸せになった人はいないと思います。
なぜなら幸せは自分持ちであるからです。
それより何よりまず自分が相手を幸せにしてあげようと思っていないのが問題です。
このような人は「私を幸せにしてくれないなら、あなたを幸せになんか決してしてあげない」と想っているのです(笑)。

②神に対する取引は「信じるから救ってください」とか「人生を捧げるから祝福してください」という祈りに現れていることがあります。

もちろん信仰決心の祈りも献身の祈りも少しも間違ったものではありません。
ただその祈りをなす人の心の奥底に、自分自身に価値を認めることができない故の、神との取引があるとしたら、その祈りは虚しいということです。
自分自身に価値があるのを認めることができない人は、自分が何かをやることによって神に認められようとします。
これをやっている限り、神との人格的交わりの関係に入っていくことが出来ません。
友人関係を考えてみてください。
あなたが何かをしてもらおうと思って誰かに近づいても、その近づかれた人は決してあなたに心を開かないでしょう。
なぜなら友人関係とは、何かをしたり、してもらったりするという前に、対等の人格的な関係がなければならないからです。
人間の友人関係であってもそうであるなら、まして神との関係においては尚更(なおさら)です。

③たとえ自分ではどうしても自分自身に価値があると思えなくても、神の言葉である聖書が「あなたは高価で尊い」と言っているのですから、それを受け入れなければなりません。

自分自身が価値ある存在であると思える分だけ、神との人格的関係もまた深まっていきます。
そして神との人格的関係が深まっていくと、ますます自分自身が価値ある存在であることが分かってきます。

3.私たちが手離さなければならないものはなんでしょうか?

①恨みを手離す。

そうしたら愛があなたの心を満たすようになります。
恨みの原因をよくよく考えてみるとき、大概それは自分にあります。
そのことに気づいたら、恨みを手離すことが出来ます。

②恐れを手離す。

そうしたら勇気があなたを満たすようになります。
恐れとは誰かに傷つけられたことによって自分の心の中に存在するようになったものです。
ですから恐れを追い出すためには、恐れそのものに立ち向かうのではなく、恐れの原因となった出来事に目を向けることです。
その出来事の中にイエスが共にいてくださったことに気づくことが出来れば、恐れは出て行きます。

③怒りを手離す。

そうしたらあなたを忍耐が満たすようになります。
癇癪(かんしゃく)持ちは怒りを抑えようとするので、結局怒りが爆発してしまいます。
怒りに対しても、怒りそのものをどうにかしようとするのではなく、怒りの原因になっていることに目を向けます。
突発的な怒りをコントロールできない人は、多くの場合ちょっとしたことが過去の苦い記憶を呼び覚まし「また自分を馬鹿にしようとしている」という思いが引き金になります。
この「また自分を馬鹿にしようとしている」という考えは思い込みであることが多いのです。
このことに気づくことが出来れば、怒りをコントロールすることが出来るようになります。

◎神とともなる歩みの中で、問題に直面するたびに「自分の問題は何だろうか?」と問い掛け、一つずつ手離して行きたいものです。
祝福を祈っています。

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