SUCCESSの法則

経済評論家として有名な勝間和代さんが朝日新聞のウェブサイトで連載しておられるコラムがあります。
そのコラムで勝間さんが紹介しておられた『SUCCESSの法則』を今日は皆さんにご紹介したいと思います。

①単純明快であるか(Simple)

あなたが語っておられることを人々は明確に理解しているでしょうか?
それとも首をひねっているでしょうか?(笑)
多くの場合、相手が理解しないと私たちは「ほんとに理解力がないんだから困ったもんだ」などと思ってしまいがちです。
会社などの管理職の方に「何回言っても分からない部下はいませんか?」と尋ねると、「良く聞いてくれた。いるんだ、それが」という反応をします。
しかしそれに続いて「本当に問題なのは何回言っても分からない部下にありますか?それとも何回言っても分からせることの出来ない上司にありますか?どちらですか?」と質問すると、虚(きょ)を衝(つ)かれたような顔をなされます。

自分では理路整然と語っているつもりでも、人様から見ると何を言っているのか分からないということがあります。
そうならないためには自分の言いたいことを一言(ひとこと)で言うクセをつけることです。
そして自分でも心の中で「これは一言で言うと、どういうことになるだろうか?」と自問自答することです。
そうすると、あなたの言わんとするところが人々に伝わりやすくなります。

②意外性があるか(Unexpected)

あなたは人々の思い込みを打破しておられるでしょうか?
もしあなたが人々が予想していることをお話になるなら人々は心の中で「あぁ、やっぱり」と感じ「早く終わってくれないかな」と思うのです。
しかしあなたが人々が思ってもみないようなことを言うなら、人々はあっけにとられ時間を忘れてあなたの話に聞き入るでしょう。

そうなるためにはどうしたら良いでしょうか?
福音による生き方は人々の思い込みを打破することができます。
イエスも当時の宗教指導者たちの思い込みを打破なさいました。
現代の人々の最も甚だしい思い込みは「私はこうあらねばならぬ」というものです。
多くの人たちはそんな生き方に疲れを覚えているのですが、それに代わる生き方を見つけ出すことが出来ないでいます。
人々にとってキリスト教といえば日曜日に教会に集い、時代後れの賛美歌を歌い、何を言っているのか分からない説教を辛抱強く聞き入っている謹厳実直(きんげんじっちょく)を絵に描いたような人々の信じる宗教というものではないでしょうか?

人々から見るとキリスト教こそ、最大の「こうあらねばならぬ教」であるのです。
そんな間違った思い込みをもって人々はあなたを見ています。
このような状況の中であなたが周りの方々に「ありのままで良い」ということを身をもって伝えられたとしたらどうでしょうか。
人々は驚き怪しむだけでなく、あなたからもっと話を聞きたいと願うに違いありません。

③具体的であるか(Concrete)

具体的であるかとは「日常生活に適用できるか?」ということです。
クリスチャンは良く「信じていたら大丈夫。神様が必ず良くしてくださる」と言います。
それはその通りであるのですが、多くの場合は神様は既にその願いに答えて歩むべき道を備えていてくださるものです。
しかし私たちはその備えられた道があることに気づかず、ずっと座り込んで「いつ頃、神様は答えられるかな~」と呑気なことを言っている場合があります。

日常生活に真理を適用するとは「こうしたら、こうなる」という方法論を知っているということです。
近所の奥さんの子供が「学校に行きたくない」と言いだし、母親であるあなたの友人がうろたえているとき、どのように言えば良いかを知っておられるでしょうか。
まさか「サタンの攻撃よ」などとは仰らないとは思いますが(笑)。

④信頼性があるか(Credible)

世の中には「成功法則」があふれています。
しかし時代の移り変わりによって、これらの本の主張は様変(さまが)わりしました。
幸せの内容が変わらないのに、人々を幸せにすると約束する成功哲学の内容が変わるのはおかしな話です。
しかし現実にはこの三十年間位のスパンで見るだけでも、内容は変化しています。
これは結局、これらのものには信頼性がないということを証しているのです。

それに比べて聖書は何千年もの間、変ることがありませんでした。
同じメッセージを人々に伝え続け、人々にあるべき目標を示し続けました。
もちろん、伝える側の教会には多くの間違いや失敗がありました。
しかしそれにもかかわらず聖書は永遠不変の神の言葉であり続けたのです。
私たちクリスチャンがこの聖書に堅く立って、神の言葉を人々に宣べ伝えるなら、「この世界には変わることのない信頼するに足るものがある」と人々に示すことが出来るのです。

これは経済評論家として有名な勝間和代さんがasahi.comに連載しておられるコラムに載っていたものです。
詳しいことは是非、勝間さんのコラムをご覧ください。

⑤感情に訴えるか(Emotional)

感情に訴えるとは表層的な興奮を煽(あお)るということでは勿論(もちろん)ありません。
そうではなく人格的存在としての私たちの間に感情交流があるということです。
感情交流とは、怒ったり、笑ったり、泣いたりすることを含みますが、それだけではなく自分の存在がまるごと受け入れられているというところから来る温かな人格的交わりがあるということを指しています。

私たちの間に人格的交流があると、言葉は静かであっても相手の感情に訴えることが出来ます。
ですから感情に訴えようとするのなら、まず人格的交流を心がけることです。

⑥物語性があるか(Story)

ごく単純な例話から人々は真理を体得するものです。
イエスもそうされました。
ありのパパが信仰に入ったばかりのときの疑問は、なぜ聖書は神学書のように論理的に書かれていないのだろうかというものでした。
何を言っているのか良く分からない例え話があるかと思えば、信仰の実践的を話をしたかと思えば、今度は哲学的な話に急に飛ぶというような感じで、聖書を理解するのに難儀しました。
今から思えば、ありのパパの信仰は現実から遊離したオママゴトのような信仰でした。
しかしイエスは信仰をオママゴトとしている人々にではなく、助けを今必要としている人々に語られました。

現代の私たちにとって物語とは何を指しているでしょうか?
昔話をする必要は全然ありません。
イエスの真理を人々に伝えるための物語は、私たちの物語であり、あなたの物語です。
そうです。自分の人生の中でイエスがしてくださったことを率直に人々に語れば良いのです。
ただ一つ気を付けなければならないことがあります。
それはくどいのは禁物であるということです(笑)。
物語を語って、人々が「これはどういう意味だろうか?」と思うところで止めておくのが秘訣です。

⑦霊的であるか(Spiritual)

七番目の項目だけは、ありのパパのオリジナルです。
勝間さんが紹介されておられた法則は全部で六つでした。
七は完全数ですので、あと一つ何かあるはずだと考え、ありのパパが付け加えました。

人が人であるのは、人が霊をもっている存在であるからです。
霊とは何かという問いに答えるのは大変難しいことです。
しかし言葉で答えるのは難しくても、全ての人が自分のうちに霊を持っていることを自覚しています。
霊性の伴わない幸せはalmost(ほとんど)な状態であり「なお一つを欠く」という状態です。
「画竜点睛(がりょうてんせい)を欠く」と申し上げても良いかもしれません。
画竜点睛とは、竜の絵を描いていたところ竜の目のひとみを描くと、本物の竜となって天に昇って行ったという故事です。

私たちは自分たちが霊的な存在であることを自覚したとき、全てのものが回り始めます。
自覚するまでは設計図どおりのダムを工事していても、雨が降らない空っぽのダムでしかない私たちの心が、霊的な存在であることを自覚するとき、心のダムに恵みの雨が降り、心(のダム)は満たされます。

◎私たちの伝えるものが真理であっても、人の心を打たないなら人々の心に届くことはありません。
私たちクリスチャンは本当の宝物を与えられているのですから、人々に感動をもって福音を届けたいものです。

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