賢い娘と愚かな娘のたとえ話

マタイの福音書25章には十人の娘たちのたとえ話が記されています。
今日は皆さんとご一緒に、この物語が教えるものは何かを考えてみたいと思います。

①このお話の前の部分には、再臨を待つ心構えを教えるたとえ話が記されています。

再臨を待つ者の心構えは「目を覚ましていなさい」ということです。
目を覚ましていなさいとは、どういうことでしょうか?
私たちは24時間目を覚ましていることは出来ません。
健康のためには8時間15分の睡眠をとることが必要です。
「ありのパパさん、ここはそのようなことを教えているのではありません。精神的に目を覚ましているべきことを教えているのです。」
果してその通りでしょうか?
私たち人間は肉体的に常に目を覚ましていることが出来ないように、精神的・心理的にも常に目を覚ましていることが出来ない存在であるのです。
そうであるのに「目を覚ましていなさい」と言われて、「あぁ、そうですね」と簡単に受取ってしまうのは万能感が強いからです。
万能感が強いとは、常に(精神的に)目を覚ましていることなど出来ないことであるのに、自分には出来ると思い込んでいるということです。
この思い込みが打破されない限り、十人の娘たちのたとえ話の真意は分かりません。

②賢い娘も愚かな娘も皆目を覚ましていることが出来ず、寝込んでしまいました。

「常に目を覚ましているべきこと」を教えたすぐ後に、娘たち全員が寝てしまったという例え話です(笑)。
自分の本当の姿を知っている人と、そうでない人の違いは何でしょうか?
自分を知らない人は「これ、出来る?」と聞かれて、出来もしないのに「はい、出来ます」と安請け合いしてしまいます。
それで後から言い訳をしなければならない羽目に陥ります。
自分を知っている人は「寝ないでいることが出来る?」と聞かれて、自分を省みて「そうしたいと思いますが、多分自分には無理だと思います」と答えます。
そこで終わっては只の人ですが、自分を知っている人は「ではどうしたら良いか?」を考えます。
皆さんなら、どうしたら良いと思いますか?

③十人の娘が眠りから醒めたとき、違いが明らかになりました。

「十人とも戒めに反して寝てしまったのだから、みんな同じじゃん?」というわけにはいきませんでした。
十人のうち五人はランプの油が切れそうになっていたことを目が覚めたときに気づきました。
あとの五人はランプに十分な油を入れていたため、目が覚めたときにも油が切れていませんでした。
慌てふためいた油切れの娘たちは、油がまだあった娘たちに油をくれるように頼みましたが断られました。
それで仕方なくお店に油を買いに行っている間に扉は閉められてしまいました。

④笑い話のような話ですが、この聖書箇所を読んでいるときに丁度ありのパパの石油ファンヒーターの油が切れてしまいました。

ありのパパの家では二週間に一度近くのガソリンスタンドに灯油を買いに行っているのですが、このところの厳しい寒さのために灯油の消費量が予想より増えて買いに行く予定日の前に灯油が切れてしまったのでした。
ありのパパは心の中で「多分大丈夫だろ。何とかなる」と高を括っていたのです。
ですから、ありのパパは愚かな娘の気持ちがよく分かります(爆)。

⑤ランプの油とは何を指しているのでしょうか?

ありのパパが信仰に入ったばかりのとき、この聖書箇所を読んで「油をあげたらいいのに。こういうときこそ皆で助け合うのが信仰者ではないのか」と思ったのを覚えています。
確かに油であればそれは可能です。
ではなぜこの油を十分に持っていた娘たちは、油が切れてしまった娘たちに油をあげなかったと聖書に記されているのでしょう?
それはこの油が意味しているものが、人にあげたり融通したりすることが出来ない性質のものであることを教えようとしているからです。

寝込んでしまうとは、罪を犯すことを指していると考えます。
私たちはどうしても罪を犯してしまう存在ですが、罪を犯すと私たちは神を信仰することに困難を覚えるようになります。
しかし「神様は私のありのままを知っておられ、それでもなお私を愛し受け入れておってくださる」という確信が心にあるなら、自分がいかに失敗しようとも神への信頼は揺らぐことがありません。
これがランプの油の意味するものであると、ありのパパは考えています。

◎十人の娘たちの例え話が教えていることは「ありのままの自分自身で良い」ということを心から受け入れて歩むとき、私たちは信仰の情熱を人生の終わりに至るまで燃やし続けることが出来るということです。
これは一朝一夕になし遂げることが出来ないものです。
「ちょっと油が足りないから、貸しといて」というわけにいかないのです。
あなたは心の中に油を持っておられますか?

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