人は姿形を見るが、神は心をご覧になる

文語訳聖書には少年ダビデのことが「紅顔(こうがん)の美少年」と書かれてあります。
今日は皆さんとご一緒にダビデが王として選ばれたときの経緯を見ていきたいと思います。

1.神が預言者サムエルに命令を下したとき、サムエルは恐れました

サムエルは神に「サウル王以外の者に油を注いだりしたら、サウル王に命を狙われます」と訴えました。
ありのパパはこれを見て心の中で「あなたはサウル王に勇気がないのを責めたにもかかわらず、ご自分は神に命乞いをするのですか?」と少々腹が立ちました(笑)。
しかしよく考えてみると間違っていました。
なぜならサムエルがサウル王を責めたのは、彼が民を恐れたからではなく、その恐れに負けてしまったからです。
サムエルも恐れはしましたが、その恐れに負けませんでした。
しっかりと神に従順し、命懸けで神の御心を行いました。
人は誰でも恐れるものです。
ですから恐れること自体をいけないこととしてはなりません。
なぜならそうすると、恐れに捕らわれるからです。
問題は恐れることではなく、恐れに負けてしまうことにあります。
この違いが分かっていたら、私たちは平安を保つことが出来るのではないでしょうか。

2.預言者サムエルがダビデに王としての油を注いだ時、ダビデはまだ少年でした。

ダビデには他に7人の兄弟がいました。
父親はダビデ以外の兄弟を次々と預言者サムエルの前に立たせます。
長兄がサムエルの前に立ったとき、サムエルは人間的には「この人が王になる人かな?」と考えたのですが、神の御心はそうではありませんでした。
これが今日のテーマである「人はその人の容姿を見て人柄を判断するが、神はその人の心の中をご覧になって判断される」[Ⅰサムエル16:7]ということです。
間違う方はおられないと思いますが、神がダビデを選ばれたのはダビデが紅顔の美少年であったからではありません(笑)。
ダビデの心の有り様(ありよう)を神はご覧になり、ダビデをイスラエルの王とされました。
そればかりかダビデの家系から救い主イエスが誕生されるようにご計画されたのでした。

3.神が義(よし)とされたダビデの心の有り様とは、どんなものだったのでしょうか?

①他のすべてのことに勝って、神に従うことを優先する心の有り様。

サウル王も神を信じていました。
しかし民の前で良い評判をとることが、神に従うことよりも彼にとっては重大事でした。
そのためには神の命令を破ることなどは、お茶の子さいさいでした。

②失敗したとき、罪を犯したとき、言い訳することなく明確に罪を悔い改めました。

姦淫の罪や殺人の罪を犯したとき、初めはしらばっくれていましたが厳しく指摘されると罪を悔い改めました。
これに対してサウル王は自己憐憫(れんびん)や後悔はしましたが、明確に罪を悔い改めるということはついにありませんでした。

③問題を持っているから用いられないということはありません。

預言者サムエルが家にやってきたとき、家中大騒ぎであったと思います。
それにもかかわらずダビデは羊とともに野原にいました。
父のエッサイもサムエルが自分の息子たちに会いに来るのは知っていたのに、末息子のダビデが野原に行くのを止めませんでした。
要するに期待されていない子供であったということが、ここから理解することができます。

女性関係で問題を起こす人には母親との関係に問題を抱えた人が多くいます。
同様に夫とうまくいかない女性の中には父親との関係に問題を持っている人がいます。
(もちろん全ての問題の原因が両親との関係にあるわけではありません。)
しかしダビデは神に用いられ続けることが出来ました。
その秘密は何でしょうか?
(つづく)

スポンサーリンク