聞かれる祈りの秘訣。あなたの祈りは的(まと)が外れていませんか?

私たちは自分が何でも出来ると思っているところがあります。
その一方で自分の力では何一つ満足になし得ない無力な自分を痛感をすることもあります。
同様に神に対しても、神は約束を果たすことが出来る御方であり、この世界のすべてを支配しておられるのは神であると信じています。
しかし、そうであるなら何故神はこんな小さな自分の願い事さえ叶(かな)えてくださらないのだろうかと訝(いぶか)しんだりもします。

①その祈りの的(まと)が外れていないか?

ある青年が教会の祈り会でこのように祈りました。
「神様、私を変えてください。私を潔(きよ)めてください」
後でこの青年から話を聞いたところ、教会の他の青年から「よっ!元気?」と言われて肩をたたかれたときに心が切れてしまったというのです。

「自分は神様に明確に救っていただいたにもかかわらず、ちょっとした小さなことですぐに切れてしまう。こんなことではいけないと思うのだが、少しも自分は変ることができない」ということでした。

またある教会の牧師は次のように祈りました。
「神様、私の中にある罪の根を取り除いてください」
この牧師からお話をお伺いしたところ、牧師という働きにふさわしい心の持ち主になりたいとの願いを強く持っておられました。

②怒りの爆発は治るのではなく回復するもの

初めの青年のケースでは、彼が突発的な怒りをコントロールできないのは潔(きよ)められていないからではありません。
全き聖潔(きよめ)の体験をしている人の中にも突発的な怒りをコントロールできない人は多くおります。
嘘だと思うなら教会の役員会をのぞいてみれば良いでしょう。
潔められているはずの牧師や役員が口角泡を飛ばして罵り合っているのを見ることができるでしょう。

もし彼が理不尽な怒りの感情から解放されたいと願うなら、どうしても12ステッププログラムに取り組むことが必要です。
怒りの感情が爆発するのは性格上の欠点からくる行動パターンが真の原因です。

この行動パターンが自分の本能を傷つけた結果として恨みの感情が暴走したのです。
これを頭だけの理解にとどめずに、全人的理解とするためには12ステップに取り組むことがどうしても必要です。

しかし多くの人々はそのような面倒なことをせずとも神に祈れば一発ではないかと考えます。

③なりたい自分になろうとするのではなく、ありのままの自分を受け入れる

心底潔められたいと願った牧師の場合はどうでしょうか?
この方は牧師職にふさわしい自分になりたいと願っておられました。
しかしここには二つの間違いがあります。

一つは自分がなりたいと願う自分自身のイメージがあったとしても、自分の中にいる「自分自身」は「そんなの御免だよ!」と言っているかもしれないのです。
その場合はどんなに努力しても努力は空回りとなり、努力すればするほどストレスが溜まるということになります。

もう一つの間違いは、この方は牧師への自分なりのイメージがあるのですが、そのイメージは聖書から見てもカウンセリング的に見ても健全なものではありません。

この方の牧師職のイメージは分かりやすく言えば「謹厳実直(きんげんじっちょく)と石部金吉(いしべきんきち)が合体したようなもの」でした。
聖書のどこにこんな人造的な作り物の信仰者が出てくるというのでしょうか?

それにこんな牧師がいたら教会員は牧師が立派すぎて自分の悩みを打ち明けることが出来なくなってしまうではありませんか。

④神の意志は信仰者を完全にすることではなく成長させること

教会にも問題があります。
それは「聖霊に満たされていたら受けなくても良い困難がある」と言って、教会員を聖霊体験へと追いやろうとします。
しかし真実は「聖霊体験をしていても受けなければならない試練や困難」があるのです。
いやかえって聖霊体験をしているからこそ試練や困難から学ばなければならない教訓を本当に受け取ることが出来るのです。

⑤神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求める

神が祈りに答えくださらないと思うのは人間の思い込みに過ぎません。
神が祈りに応答してくださらないということは絶対にありません。
ただ人間の側で「自分の気に入る神の応答がくるまで自分は認めない」と無意識に思っているのです。
それで神が「今は『すぐには答えない』というのが、あなたの祈りへの応答だよ」と言われているにもかかわらず、「おっかしいな~。もうすぐ応答があるはずなんだけど~」と寝ぼけたことを言っているのです。
ある人々は「そんなことありません!」と仰るでしょう。
しかし心の深いところに誰でもフィルター(無意識の思い込み)を持っているのです。
そのフィルターの存在に気づかないと、神の声を聞くことができません。

問題解決の鍵はいつでもあなたの足元に落ちています。
しかし私たちは「鍵は私の足元になんかあるはずがない。きっとどこか遠くにあるに違いない」と言いながら、漫然と遠くを眺めているということはないでしょうか?
私たちは愚かな人ではなく、賢い人となって信仰生涯を歩みたいものです。

◎平安と祝福を祈っています。

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