無条件と無制限のちがいとは?

無条件と無制限という二つの言葉は似たような響きがありますので、同じものであると考えがちです。
しかしこれは全く別のものです。
今日はマタイの福音書22章1節~14節にある「婚礼に招いた王と招かれた人々のたとえ」を通して、このことを学んでいきたいと思います。

①救われるのに条件がないというのが、無条件の救いということです。

王様は初め招待しておいた人々を招きましたが、その人々はみな断りました。
(これはイスラエルと神様の関係を現しています。)
それで王様は「誰彼かまわず連れてきなさい」と部下に命じます。
(これは異邦人である私たちと神様の関係を現しています。)

②すべての人が救いに選ばれています。

「(神の御心は)一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことです」[Ⅱペテロ3:9]

a.無条件的に選ばれているとは、救われるために人間の側の努力や功績が必要ないということです。

救われるのに条件がある救いとは、律法を守ることによって救いに到達しようとする道です。
イスラエルの人々はこの律法を守るのに忙しくして、神の御子がこの地上に来てくださったにもかかわらず、この御方を受け入れることもせず信じることもしませんでした。

b.救われるのに条件がある救いがもう一つ存在します。

改革派系の教会が奉じるカルビン神学に予定論というのがあります。
この予定論とは神がある人を救いに、ある人を滅びに選んでおられるという神学思想です。
この考えに立つと、人が救われるのも滅びるのも、すべては神の主権によるということになります。
これは「神の主権」という条件をつけることによって、無条件の救いを実質的に条件付きの救いへと変質させてしまうものです。

③婚礼に招かれた人は王が用意した礼服を着なければなりませんでした。

このたとえ話によると、一人だけ王が用意した礼服を着ていない人がおりました。
王はこの人に「なぜ着ていないのですか?」と尋ねるのですが、その人は黙ったままでした。
それで王はその礼服を着ていなかった人を外に放り出してしまいました。

ある人々は「無条件であるといいながら、王が用意した服を着なければならないとはおかしい」と言います。
要するに無条件ということにならないではないかという訳です。
皆さんはどのようにお考えになられますか?

④無制限ではないということと、無条件であるということは矛盾しない。

このたとえ話は明らかに神がお与えになる救いについて教えています。
ですからある人々が言うように「王が用意した礼服を着なければならないということは、救いの無条件性を否定することになる」ならば、それは大問題です。
しかしそうではないのです。
この人たちは無制限性と無条件性を混同するという誤りを犯しています。
もし王が用意した礼服を自分のお金を払って買わなければならないのだとしたら、それは条件付きの救いということになります。
しかしこの礼服は招かれたすべての人に無料で用意されていたのです。
着ようとする意志さえあるなら、誰でもこの礼服を着ることが出来たのです。
ですからたとえ礼服を着なければならないとしても、無条件性が損なわれるということには決してなりません。

⑤現実生活においても、無条件と無制限の違いをわきまえていることは大切なことです。

a.なぜなら無条件ということをわきまえていないと他者との間に壁を作ることになるからです。

クリスチャンは往々にして他者との間に壁を作りがちな人々です。
「敬虔である」という評判は結構なのですが、実は付き合いづらい人であるという人々の本音が隠されていなければ幸いです。

b.無制限ではないということをわきまえていないと、人々の間に境界線を引くことが出来なくなります。

何時に電話を掛けてきても断ることが出来ない、掛かってきた電話をこちらから切ることが出来ないなどは、無制限と無条件を混同しているところから起きます。

◎私たちは今年一年無条件と無制限の違いをよくわきまえて生活したでしょうか?
そうであった方も、これからそうなる方も、来年は無条件で救われた者にふさわしく他者にも無条件で接することが出来るようになり、他方では他者との間にしっかりと境界線を引くことが出来るようになりたいものです。
祝福を祈っています。

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コメント

  1. マッキー より:

    ありのパパさん、こんばんは

    珍しく神学的単語に、びびっと反応してしまいました(笑)私では明らかに役不足で、Abe師クラスのカルヴィニストでなければ、丸っきり議論の相手にはなれそうもありませんが…。

    「予定論」の神の主権という条件付け

    これは信仰義認、人の側の自由意思による信仰の決断(信仰告白)さえをも、神様はその全知全能性の故に、あらかじめ救われる人と救われない人とを御存知だということだと思います。

    「全ての人が悔い改めの道に進むことを望んでおられる」

    神様の愛の故に疑いようのないことですが、神様は御自身の絶対的主権を用いることはなされず、(ここで絶対的主権を用いられてしまっては、万人救済になってしまいます。)人の側の自由意思を重んじられておられるのかと思います。

    もうちょっと、砕けた話にすると、ある人が説教や個人伝道で「イエス様を信じた!!」と言いました。自分が信じる決断をしたと思っております。でもある時気付きます。

    「私があなたを選び、任命したのです。」

    自分で信じた!!と思っていたけど、実は神様が選んで下さっていたのだと…。

    自分の体験と個人伝道で与えられてきた実感です。

    まぁ、軽くスルーしてくださりませ。

    • ありのパパ より:

      こんばんは、マッキーさん。
      コメントをありがとうございます。

      軽くスルーできないのが、神学キチガイの性でしょうか(笑)。
      マッキーさんのご理解は穏健なカルビン神学といったところだと思います。

      私の理解はウェスレアン・アルミニアンのものです。
      神の選びと言うとき、それはイエスを信じることによって救われるという神の救いについてのご計画を指していると考えます。
      ですから、すべての人は選ばれているということが言えます。

      この理解がもっとも聖書的だと思っていますが、しかし穏健なカルビン主義的理解でも何ら問題はないと考えています。

      またコメントしてください。お待ちしています。