十字架を背負うということの本当の意味

よくよく気を付けなければならないことがあります。
それは『重荷を負って苦労している者はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』というイエスの言葉を信じて信仰に入ったのにもかかわらず、気が付いてみると未信者のとき以上の重荷を背負わされている場合があるということです。
このようなクリスチャンの状態をどなたかが「重荷は取り払われたが、代りに十字架を背負わされた」と言いました。
しかしこれは間違っています。聖書はそのようなことを言っていません。
そこで今日は皆さんとご一緒に、本当の「十字架を背負う」ということの意味を考えてみたいと思います。

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1.「重荷は取り去られた。二度と奴隷のくびきを負ってはならない」という聖書の警告。[ガラテヤ5:1]

①重荷には二種類あります。

一つは背負わなくてもよい重荷であり、もう一つはイエスに従おうとするなら必然的に背負うことになる重荷です。
背負わなくてもよい重荷とは、律法を守ることによって救いに到達しようとする努力を指しています。
これは救いに関するものだけではなく「これが出来たら合格、これが出来なかったら不合格」と考える思考パターンすべてを指しています。
人間の心の中には「善い行いを積むことによって救いを目指す」という想いが強くあります。
その想いは救われたクリスチャンの中にも残存しています。
私たちは気を付けないと、難行・苦行の類を十字架の重荷であると錯覚してしまう危険があります。
ことに日本的文化の中にある人々は、このような敬虔主義的律法主義の惑わしの力が強く働きます。

②背負わなくてはならない重荷とは、イエスに従おうとする全ての者が受ける迫害・困難を指しています。

私たちは「この重荷は偽りの十字架か、それとも真の十字架か」と自分に問う必要があります。
そうでないと、私たちは十字架を背負っているつもりで、背負わなくてもよいくびきを背負わされてしまうことになりかねません。

2.私たちが背負うべき十字架とは、イエスと共に担うくびきを指しています。

『わたしが与えるくびきは軽く、負いやすい』とイエスは言われました。[マタイ11:30]

くびきとは、車を引くために牛や馬の後顎(あご)につける横棒のことです。
クリスチャンが災難に遭ったとき、よく言われるのが「これは私の背負うべき十字架です」という言葉です。
しかし十字架とは、イエスに従うとき必然的に起きてくる迫害・困難を指しているのです。
ですからそれ以外の重荷を十字架と呼んではなりません。
なぜ呼んではならないかというと、それがもし十字架であるなら私たちは背負わなければなりませんが、十字架でないなら背負ってはならないからです。
イエスは「重荷を負って労している者はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われました。
そうであるのに私たちが再び重荷を負ってよいはずはありません。

3.利口(りこう)者と馬鹿者と気狂い者と。

①イエスは「人前でわたしを認める者だけを、わたしも天の父の御前で認める」と言われました。[マタイ10:32]

それにもかかわらず利口者はなんとか迫害を避けようとします。
それは迫害されることによって受ける心理的・経済的・社会的損害を何とか受けないで済まそうと考えるからです。
しかしイエスは「迫害は避けられない」と言われました。
そうであるのに迫害を人間的知恵で避けようとすることは、結局のところイエスを否認することに繋がります。
これの典型的な例が戦前の我が国の教会です。

②馬鹿者は利口者とは違い、イエスを否認することはないのですが、相手の出方(でかた)を見極めることをせず、馬鹿の一つ覚えのように徹底抗戦を叫びます。

結局、この人々は最後は矢が尽き折れて自滅してしまうことになりがちです。

③気狂い者とは、イエスのためには心狂(こころくる)う者であると告白したパウロのような人々です。

「気狂い」の意味はもちろん精神病者という意味ではなく、寝ても覚めてもイエスのことを考えている人々ということです。
ジョン・ウェスレーの盟友であるジョン・フレッチャーという人がおりました。
この人が初めてイギリスに来たとき、馬車の御者(ぎょしゃ)と話をしていて、最近世間を騒がせているメソジストのことに話題が及びました。
フレッチャーがメソジストとはどんな人々かと尋ねると、その御者は「へぇ、彼らはイエスきちがいです。朝から晩までいつも祈っている人々でございますだ」と答えました。
フレッチャーはこの答えを聞いて、ウェスレー率いるメソジスト運動に参加することを決めたのでした。

◎私たちはイエスきちがいとなって、十字架を背負う者とさせていただきたいものです。
祝福を祈っています。

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