十二使徒の派遣

今日は皆さんとご一緒に、イエスが十二使徒を派遣したことを記している聖書個所を見ていきたいと思います。
マタイの福音書10章5節~15節には大変興味深い、また驚くようなことが書かれてあります。

①伝道旅行に行くとき、財布も着替えも持って行ってはならない。

ありのパパはこの個所を初めて読んだとき、心の中で「二千年前に生れてなくて良かった。今だったら一万五千円くれる」と思ったものです(笑)。
これは今から何十年も前の話ですが、その当時ありのパパが所属していた教団は教会を開拓する場合、派遣した牧師に月々一万五千円支給していました。
それを知ったとき、何と少ないのかと呆れましたが、まだ上がいました。
イエス様は「何も持って行ってはならぬ」と仰ったのです。

戦後のキリスト教会で初めから自給自立の方針を掲げて活動をした教会は比較的早く自給を達成しました。
しかし外国からの支援に頼る教会はいつまで経っても経済的自立をなすことができませんでした。
そのうちに我が国が高度経済成長をしたことを知った宣教団体に「あなたがたはいつまで私たちの支援に頼っているのか」と苦言を呈され、支援を打ち切られました。
そうすると不思議なことに、支援を打ち切られた教会は難なく経済的自立を達成することができるようになりました。
これは何を現しているのでしょうか?
依頼心がある限り、自立は不可能であるということです。

②宣教活動の内容は、福音の宣証とともに、肉体の病と精神的な病の両方を癒すこと。

これも現代の教会のリーダーに恐怖感を与えると思います(笑)。
今の時代ほど、癒しや奇蹟などの印を求める時代はありません。
特に聖霊第三の波の教会に属する人々は、癒しの賜物が与えられることを強く求めます。

しかしこれには間違った思い込みがあります。
癒しの賜物は教会に既に与えられているのです。
教会はイエスのご命令通り、人々に癒しを宣言すれば良いだけです。
同様に教会は福音を宣べ伝える責務がありますが、人々の心に働きかけをしてくださるのは御霊なる神の働きであるのです。
私たちは自分たちが責任をとる必要のないものまで、責任を取ろうとしています。
なぜそんなことが起きるかというと、それは私たちが知らず知らずのうちに万能感に支配されているからです。

○私たちは神に命令されたことをやった後は、謙遜かつ忠実な僕として「私たちは言われたことをやったに過ぎません」と告白したいものです。

③只で与えられたのだから、只で与えるべきこと。

キリスト教ほど只が好きな宗教はありません(笑)。
イエスが只で福音を弟子たちに提供してくださいました。
「だからあなたがたも人々に只で福音を提供しなさい」と言われているのです。
私たちは人々からお金を取らないようにしたいものです。
「そんなこと言っても、只で提供するためには、誰かがお金を出さなければならないではありませんか」と言うでしょう。
確かにその通りです。
イエスがここで言われているのは「お金を取って、その対価として福音を提供してはならない」ということです。

我が国で定期的に行われている聖霊派の聖会で、強烈な献金のアピールがされます。
このような聖会に出席するたびに、ありのパパは心が苦しくなります。
それは自分は只で与えられたにもかかわらず、人々からお金を取ろうとしているからです。
もしお金を取らなければ聖会を開くことが出来ないということであれば、そんな聖会は開かない方が良いと、ありのパパは考えますが、皆さんは如何お考えでしょうか?

④融和的な姿勢でなく、対決的であること。

西洋から来た宣教師は求道者に対して対決的です。
それに対して日本人牧師は一般的に言って融和的です。
どちらにも長所と短所があります。
それにしても融和的な姿勢をとる人々は心の中で「今すぐに決心を迫らなくても、ぼちぼちやれば良い」と考えているところがあります。
しかし歴史を見ると戦国時代のキリシタンに許された宣教の期間はわずか六十年でしたし、戦前のキリスト教会に許された宣教の期間は七十年でした。
これを見ると明らかなように、いつまでも自由に信じることが出来るとは限らないのです。
イエスは「昼の間にあなた方のなすべきことをやりなさい。だれも何も出来ないときがやってきます」と言われました。
ぼちぼちとやっていては、とてもではありませんが神から委ねられた宣教の責務を果たすことは出来ないのです。
(誤解のないように申し上げておきますが、ここで言う対決的であるとは、自分の意見を押し付けるとか、人々の人権を侵害するということではありません。)

◎私たち一人一人もイエス様に派遣された者です。
時代と環境は違っても、二千年前と同じスピリットをもって福音の宣教にあたりたいものです。

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