12stepの三番目のステップ

「私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮に委ねることにした」

上記の言葉は「12ステップ」として有名な三番目の言葉です。
今日は皆さんとご一緒に、この言葉の意味するところを考えてみたいと思います。

1.信仰を持っているだけでは神の力と臨在を自分自身の人生に呼び込むことはできません。

①ではどうしたら、神を自分の人生にお迎えすることが出来るのでしょうか?

その答えはズバリ「自分の意志と生き方を神の御心に合わせていくこと」です。

②私たちは誰でも自分の考えが一番正しいと思っています。

しかしその自分の考えを押し通した結果、私たちは自分の人生に行き詰まりました。
それで今度は自分の考えではなく、神の御心に基づいて生きていこうと決心したわけです。
神の御心は聖書に書かれてありますから、難しいことはないと思われるかもしれません。
しかし現実はそんなに単純ではありません。

③自分自身の考えを脇に退けて、自分が理解した神の御心に従って生きる。

聖書が霊感された神の言葉であっても、今日の、この環境に置かれた、この私がどうしたら良いかが全部書かれてあるわけではありません。
聖書の御言葉を聖霊の導きに従って、自分の生活と環境と問題に適用するのは私たちの仕事です。
私たちは自分が理解した神の御心に、自分自身の意志と生き方を日々委ねていくことを通して、神様に自分の人生に来ていだくことが出来るのです。

2.無力を認めることと、出来ないと尻込むことは同じではありません。

①静寂主義とか待機主義とか呼ばれるものと、信じて従う生き方は全く違うことです。

静寂主義とは宗教用語であり、待機主義とはカウンセリングで使う言葉ですが、両者には共通点があります。
静寂主義とは、断食したり、祈ったり、瞑想したりすることによって、神との合一を目指す立場です。
待機主義とは、私たちが良く聞く「しばらく様子を見てみます」というセリフに現される、自分から打って出ない待ちの姿勢を指しています。
この両者に共通する特徴は、自分が自分の人生の主役を降りているということです。

②なぜ待機主義に陥るかというと、それは自分に自信がないからです。

もちろん自分自身の姿を正直に認める人は誰も自信がある人などはおりません。
しかし私たちは自分の無力を認める(第一ステップ)とともに、神様にならこんな自分を救う(第二ステップ)ことができると信じました。
この第一と第二のステップを踏んだ人は、次のステップに進まなければなりません。
それは第一と第二のステップにおいてなした悔い改めと信仰を日々の生活の中で実践するということです。
もし第二ステップで止まる人がいたとしたら、それは神を信頼していないからです。
神を信頼していたら、神は力を自分に与えてくださると信じることが出来ます。
このような訳で、私たちは誰でも信仰から来る自信を持つことが出来ます。

3.全ての依存から解放されて、神への依存のみに生きる。

①この地上には多くの依存がありますが、一つだけ依存症にならない依存があります。

それが神への依存です。
それ以外のものへの依存は、みな依存症に陥ります。
たとえそれが教会であっても、教会に依存すれば教会依存症になりますし、奇蹟に依存すれば奇蹟待望症(依存症)になります。
依存症にならない依存は人格をもっておられる神様への依存だけです。
これ以外のものは皆偶像礼拝となります。
偶像礼拝は宗教上の用語であり、依存症は心理学的な用語ですが、本質において同一です。

②神への依存で大切なのは、感情的・精神的に依存することです。

現代のクリスチャンの弱点は神への依存が理性的な領域に限定されがちであることです。
これは結局、神学や教理への依存に堕してしまうことになります。
そうならないために大切なことは、泣いたり、笑ったりする感情レベルで神に信頼することです。
目に見えない神を、目に見えるように信頼するのでなければ、感情レベルで信頼することは出来ることではありません。
(このことのためにも異言で祈る賜物が与えられているのではないかと考えています。)

③結局、私たちは次の祈りに現された人生を生きていくことが最善であるのを悟るようになります。

神様、これらのものを私にお与えください。
自分に変えられないものを受け入れていく従順を、
変えて行けるものは変えていくチャレンジを、
そしてこの二つのどちらであるのかを識別する洞察力を。

◎これらの信仰の営みを通して、私の意志ではなく、神の意志がなりますようにと願い祈ります。

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