断食は何のために?

マタイ福音書9章14節から17節にはバプテスマのヨハネの弟子たちが「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜあなたの弟子は断食しないのですか?」とイエスに直接質問していることが記されています。
そこで今日は皆さんとご一緒に、断食は何のためにするのかを考えてみたいと思います。

①ユダヤ人は我々日本人と似ているところがある(笑)。

「誰それさんは何々をやっているのに、あなたはやっていない」というセリフは人々が非難するときに最も用いる口実です。
二千年前のユダヤでも、現代の日本と同じ非難の言葉が繰り返されていました。
バプテスマのヨハネとイエスは盟友関係にあり、ローマ帝国、パリサイ人・律法学者に対して同じ歩調を取っていました。
ですからことのほか、この指摘をイエスは重大に受け止めたと考えます。
また私たちは単純にイエスとバプテスマのヨハネは連合戦線でも組んでいたかのように思いがちですが、実際には各主題ごとに異なる立場を保っていたらしいのを見ることができます。

②断食をやる目的は何?

パリサイ人が断食をやる目的は、それをやることによって救いに到達するためでした。
これを律法主義といいます。
律法を守ることによっては決して救いに到達することができない私たちのために、イエスが十字架に掛かって私たちの罪の処罰を受けてくださいました。
これが恵みと憐れみによって一方的に救われる道です。

③イエスはこれを説明されるのに、花婿と婚礼に招かれた客の話をしてくださいました。

即ち花婿とは私たちに無代価で救いを与えてくださる救い主を現しており、客とはイエスの弟子を現しています。
律法が与えられて以来、人々は律法を守ることに精を出してきましたが、その結果理解したことは律法を守ることによっては決して救いに達し得ないということでした。
この絶望の中にいた人のところに、律法によらない救いの道を提供してくださる御方が来られたのです。
これは喜ぶはずです。断食している場合ではありません(笑)。

④花婿が取り去られた後は、イエスの弟子たちも断食をします。

現代のキリスト教会の中には「断食なんかする必要ない」という人もいるようです。
これは大変残念なことです。
なぜならイエスご自身が「花婿が取り去られた後は断食するようになる」と明言されておられるからです。
それにもかかわらず誤った指導がされるのは断食をする目的を取り違えているからです。
救いに到達するために断食をやる必要はさらさらありませんが、救われた後はイエスの恵みに浸されるために断食の時間を持つべきであるのです。

⑤問題の本質は動機にあります。

人がやっていることの動機を知っているのは、その人と神様だけです。
熱心に祈り・聖書通読・伝道・奉仕をしておられるクリスチャンを見て、その方が救われるためにやっているのか、それとも救われた感謝から喜びに突き動かされてやっているのかを見分けることはできないことです。
時々は自分でも自分の動機が分からない時があるぐらいですから、人のことなど分かるはずもありません(笑)。
分かると思うのは、傲慢だからです。

⑥イエスは動機が問題であることを説明なさるために、新しいぶどう酒と古い革袋の例えを話されました。

この例話は好き勝手に自分に都合よく利用されがちな個所です。
(かつてはありのパパもそのような間違いを犯していました。)
救われているにもかかわらず、救われるためにせっせと断食するなら、それは既に得ている救いを失ってしまうこととなります。
これを『そんなことをすればぶどう酒(救い)は流れ出て(失って)しまう』とイエスは表現されました。
古いぶどう酒とは、律法を守ることによって救いに達しようとする道であり、古い革袋とは律法を守る行いを指しています。
新しいぶどう酒とは、十字架の身代わりの死を信じることによって値いなしに救われる道であり、新しい革袋とは救われた者が神が定めてくださった善き行いを実践するのを指しています。
神が定めておられる善き行いとは、自分自身をありのままに愛し受け入れ、隣人を自分自身を愛するようにありのままに受け入れることにほかなりません。

◎ありのパパは断食を健康目的のためにやっており、今日の聖書個所から改めて教えられました。
これからは断食を健康増進と共に、神との交わりの時を心静かに過ごすために実行したいと思います。
みなさんも、どうぞ断食にチャレンジなさってみてください。
祝福を祈っています。

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