病を癒すのと罪を赦すのはどちらが簡単?

今日は皆さんとご一緒に、「中風の男の癒し」として有名な聖書個所を見ていきたいと思います。
現代に生きる私たちが「病の癒しと罪の赦しは、どちらが難しいのでしょうかね?」などと聞こうものなら、教会の四方八方から「なんと不敬虔な!恥を知れ!」と罵声が飛んでくるのではないでしょうか?(笑)
しかし二千年前にイエスはこの質問を当時の宗教指導者たち(律法学者)にされました。
ですから私たちが同じ質問をしたとしても許されると思います。
またこの質問に答える義務が私たちにはあります。

①中風の男の癒しの背景。

中風とは現代の言葉で言えば「脳出血後に残る麻痺状態」(広辞苑第四版)を指します。
ひょっとしたらイエスはこの男の人がどのような生活をした結果、中風になったのかを見抜いておられたのかもしれません。
または病気になったことにより、家族に申し訳ないとの思いで一杯になり罪悪感に苦しめられていたのかもしれません。
それでイエスは「さあ、勇気を出しなさい。あなたの罪は赦されました」と言ってくださいました。
イエスは現代の福音派教会のように「病の癒しより、罪の赦しが大切です」などとは決して言われませんでした(笑)。
なぜでしょうか?
それはイエスはご自身が持っておられた愛のゆえに、目の前にいる人の当面のニーズを満たさないではおれなかったからです。

②人々は罪の赦しを宣言する方が、病を癒すことより簡単であると思っている。

イエスと正反対のところにいたのが律法学者でした。
律法学者の頭の中にあったのは、神学的合理性のみでした。
これも勿論大切なことですが、しかし愛が伴わないなら、それは死せる正統主義となります。
イエスが中風の男の精神的必要のために、まず罪の赦しを宣言なされたことに対して、律法学者たちは間髪入れずに心の中で反発しました。

③しかしイエスは罪を赦すことの方が、より重大であると考えておられた。

当たり前といえば当たり前のことですが、イエスにとっては病を癒すことなどは御茶の子さいさいでした。
なんと言っても神様ですから!
ただし、神が罪を赦すのと、人間が罪の赦しを宣言するのとは厳密に言えば違うことです。
律法学者にはこの違いが分からなかったので、イエスが罪を赦したのを単なる宣言だと思ってイエスを裁いたのです。

④赦しの権威を持っていることを証明するために、癒しの業を実行なされた。

イエスにとって癒しの業を行う理由は少なくとも二つありました。
一つはご自身の愛のゆえに、人々のニーズをお満たしになったということです。
もう一つはご自分が罪を赦す権威を持っておられることを人々に知らせるためです。
人々がイエスの癒しの業を見るとき、確かにこれは神の御業であると納得せざるを得なくなります。
そうすると、この御方が罪の赦しを宣言なされるなら、それは確かに天においても罪が赦されているのであると、人々は確信するようになるのです。

⑤近代・現代教会における癒しの教理的位置づけ。

癒しを単なる奇蹟の現れとして捉えるレベルから、福音理解に結びつけて考えるようになったのはA.B.シンプソンでした(シンプソン博士はアライアンス教会の創設者として有名です)。
シンプソンは「キリストは救い主・潔め主・癒し主・再臨主」と教えました。
これにインスピレーションを得たのが、ホーリネス教会創設者の中田重治でした。
中田重治は「四重(しじゅう)の福音」として教えました。
この四重の福音に祝福をプラスして五重の福音として教えたのが、韓国のチョー・ヨンギ先生です。

⑥聖霊派と呼ばれる教会は、癒しの業と赦しを結びつけて考えることに失敗している。

聖霊派教会では癒しが強調されます。
(これを商業的アプローチのために使っている人々がいることを承知していますが、今日はこの問題には触れません。)
イエス様が十字架に掛かってくださったことにより実現された福音の内容は「救い・聖潔・癒し・祝福・再臨」であると信じるからです。
これはもちろん聖書から導き出された教えです。
しかしイエスは愛のゆえに人々のニーズを満たすため、また罪の赦しの権威を持っていることを人々に知らせるために癒しの業を行われました。
私たちが人々のために癒しを祈るとき、ニーズを満たすためという理由がほとんどではないでしょうか。

◎果して私たちはイエス様のように、イエスが罪の赦しの権威を持っていることを人々に知らせるために癒しの業が起きるように祈ったことはあるでしょうか?
ありのパパは残念ながら、そのような経験がありません。
いつも人々のニーズを見たそうして祈るばかりでした。
これからはイエス様が罪を赦す権威を持っていることを人々に知らせるために、病の癒しを祈っていきたいと思います。

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