本音で生きる大切さ

本音で生きるとは、どのような生き方でしょうか?
これは多くの人が考えているよりも、多くの内容を含んでいます。
そこで今日は皆さんとご一緒に、本音で生きるとはどのような生き方であるのかを考えてみたいと思います。

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①本音で生きるとは、思ったままに生きるということではない

この世の標準で言うなら、本音で生きるとは思ったままに生きることを意味します。
しかし本音で生きるとは、本音だけで生きることとはちがいます。
ここを勘違いしてしまうと、「わがまま」と「本音で生きる」ことの違いがわからなくなってしまいます。

②本音で生きるとは、本音と建前が一致していること

本音とは「自分はこうしたい」という願いです。
建前とは「私はこうしなければならない」という考えです。
本音と建前が一致しているというのは、本音さんと建前さんが良く話し合って落し所(おとしどころ)を決めるということです。
本音だけで生きる人は、いつかは人生が行き詰まるものですし、建前だけで生きる人は自分自身が病んでしまいます。

③自己一致とは、本当の自分が見えており、その自分を受け入れていること

人が人を裁くとき(嫌悪感を持つとき)、心の中でどのような営みが行われているのでしょうか?
このようなとき、人は自分の本当の姿を忘れて、自分は完全であると無意識のうちに思い込んでいます。
そして相手の現実の姿を見て、無意識のうちに完全な自分と比較して、裁いたり、嫌悪したり、馬鹿にしたりしているのです。

では自己一致しているとは、どういうことでしょうか?
それは忘れた振りをしている自分の本当の姿を思い出し、完全から遠いところにいる自分自身を受け入れることです。
そうするなら、どんなに問題がある人であっても共感をもって受け入れることが出来るようになります。

④人を潔める神の御業にあずかるための前提条件は、本音で生きること

「神が光のうちにおられるように、私たちも光の中を歩むなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血は全ての罪から私たちを潔めます。」[Ⅰヨハネ1:7]

日本的な文化の中に生きていると、聖い生き方を志すなら、自分でも聖い振る舞いを心掛けなければならないと思いがちです。
これが文字通りの聖書的な聖い生き方であれば問題はありません。
しかし「聖い生き方」が「聖い振りをする生き方」へと変質するなら、それではいつまで経っても実質的に聖い人になることはありません。
「光の中を歩む」とは「互いに交わりを保ち」とあることから、[本音で生活する・本音で交わる]ことを指しているのではないでしょうか。

⑤孤独が癒されていくために必要なのは、本音で周囲の人々と交わること

多くの依存症の方々が「結局、私がなぜ依存症になったかと言うと、それは孤独を癒すためであった。しかし孤独をいやそうと思ってやったことは、孤独を紛らわすことでしかなかった」と言われます。
人がなぜ孤独感を持つかと言うと、それは虚栄心や見栄やプライドのゆえに「こうありたいと願う自分」を演じるので、本当の自分を見せることが出来ず、その結果孤独を感じるのです。

⑥クリスチャンは「こうあらねばならない」という呪縛(じゅばく)から解放された存在

なせなら「こうあらねばならない」の正体は律法主義であるからです。
しかし現実に目を転じると、クリスチャンぐらい「こうありたい病」に掛かっている人はいないのではないかと思われる程です。
「こうありたいと願う自分・こうあらねばならないと考える自分」に別れを告げない限り、心の中にある孤独が癒されることはありません。
別れを告げるかどうかは、私たちの決断に掛かっています。
もし今日決心するなら、そのように生き始めることが出来るのです。

◎二つ心(自己一致していない心)を持ったままでは神に喜ばれることができません。
私たちはどうしても一つ心の人(自己一致している人)になる必要があります。
祝福を祈っています。

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コメント

  1. reiko より:

    観念論ではとてもよくわかります。
    わたしも自己一致したい、もうその歩みをしているのだとも思います。
    人の顔色ばかりを気にして生きてきました。
    その結果が偽善者になり、神さまからも嫌われました。
    神さまの怒りが限界に達して赦しが見えないので、とても苦しいです。
    こんな自分でもこれから先、神さまに癒していただける可能性があると思いますか?

    • arinopapa より:

      こんにちは、reikoさん。
      コメントをありがとうございます。

      「観念論では分かる」というのは、本当は分かっていないということです。
      本当に分かるとは、お腹にストンと落ちるということです。
      神様の怒りが限界に達したのではなく、あなたの自分自身に対する怒りが限界に達したのではないでしょうか?
      神様に癒していただく道は、自分自身を「そのままでいい」と赦し受け入れて、人生を歩んでいく道です。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  2. reiko より:

    ありがとうございます。
    お腹にすとんとおちる、そうですね。
    牧師もよくそういっていました。
    短い文章だけですと、伝わりにくいですね。
    自分の場合は、本当に神様からさばかれたんです。
    それで、やっと目が覚めた、自分の本性が見えてきた、わからなかったんです、「神の子ではないです」といわれるまで。
    みじめで、汚れきった自分、神さまから赦されないと、自分で赦すことはできないのではないのでしょうか?

    • arinopapa より:

      こんにちは、reikoさん。
      コメントをありがとうございます。

      キリストがあなたの替わりに十字架の上で裁かれてくださったのに、どうしてそのようなセリフが出てくるのでしょうか?
      もう既にあなたは赦されています。
      そして自分が赦されたのだから、自分自身を赦し、隣人を赦していくのが、信仰生活の全体です。

      またコメントしてください。お待ちしています。