御心を行う人だけが、天国に入れる

今日のテーマは何と刺激的なテーマであることでしょうか(笑)。
しかしこれは聖書に記されているイエスの教えであるのです。

①聖書全体の教えと、各聖書箇所の教えの整合性をどのように取るかという問題は大変やりがいのあることです。

中には聖書全体の教えなどは気にする必要はなく、各聖書箇所を厳密に釈義すれば必ず正しい聖書理解にたどり着くと考える人々もおられます。
しかしこのような人々の説教を聴きますと、一見厳密な釈義に基づいているように見えはするのですが、結論がとんでもないことになっている場合もあります。
その原因は厳密な聖書釈義といっても、聖書全体は何と言っているかということとの比較・対比がないと、結局は自分の考えを投影してしまい、聖書の言葉を使って自分が言いたいことを説教しているのに過ぎないということになってしまうからです。

②「『主よ、主よ』と言う人が皆天国に入れるのではありません。そうではなく御心を行う人だけが天国に入れるのです。」[マタイ7:21]

今日皆さんとご一緒に見ている個所は、多くの議論を呼んでいる個所です。
なぜなら聖書全体の主張は「イエス・キリストを信じる者は誰であれ救われる」というものであるにもかかわらず、ここでは明確に「御心を行う人だけが天国に入れる」と書かれてあるからです。
この聖書個所を聖書全体の教えとどのように整合性を取っていけば良いでしょうか?
皆さんなら、どのように説明されるでしょうか。
ありのパパは、以下のように説明します。

③神の御心の中で最も大切なものは「自分自身を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛する」ことです。

正直な人であるなら誰でも自分の中に、人を裁かないでありのままに受け入れていく愛が全然ないということをお認めになるのではないでしょうか。
ですから逆立ちしても神の御心を行うことは出来ないという結論に至るのが真実な人の答えです。
このような私たちの罪を背負って十字架に掛かって死んでくださったのが、私たちの主イエス・キリストです。
この御方を救い主として信じ、心に主として受け入れるとき、私たちは救われ、新しく生まれ変わることが出来ます。
私たちが信じて救われたのは、御心を行うためです。
もし私たちが口先だけで「主を信じます」と言うだけで御心を行わないなら、それは虚しいことです。
確かにそのような人に向かって、イエスは最後の日に「わたしはあなたがたを全然知らない」と言われるでしょう。
このように考えていくと「信じるだけで救われる」という教えと、「御心を行う者だけが天国に入れる」という教えは矛盾しなくなります。

④なぜ御心を行う必要があるのでしょうか?

誰かが自分のことを愛してくれたという体験がないと、愛とは何かということが分かりません。
これが教会で「神はあなたを愛しておられる」と何べん説教されても、ピンと来ない理由であるのです。
同様に「君は愛されるために生れた」というゴスペルを何回歌ったとしても、愛された体験が個人的になければ、神の愛を理解することは不可能なことです。
その故に先に救われたクリスチャンが、未信者をありのままに受け入れるという最もシンプルな方法で愛を体験していただくのです。
そうすると愛とか何かということを体験的に知った人々は、今度は神の愛を理解することができるようになります。
このようにして福音はハート・ツー・ハートで伝わっていくように定められているのです。

⑤預言をしても、悪霊を追い出しても、沢山の奇跡を行ったとしても、天国に入れないことがあり得ます。

今日、私たちは御心を行っているという自覚のもとに様々なことをしています。
その中には、預言をしたり、悪霊を追い出したり、沢山の奇跡を行うことが含まれています。
しかしイエスは、このようなことを行っていても、それが御心でないこともあり得ると言っておられるのです。
これらのことを熱心に行っている聖霊派教会にトラブルが続発しているのは、もしかしたら理由のあることかもしれません。
それはこれらの教会では「熱心に奉仕する信徒は合格、そうでない信徒は不合格」という二元論的な理解が支配的であるからです。
イエスの提供してくださる救いは、頑張っても頑張っても救いに到達しないという律法主義の呪いからの解放でした。
そうであるにもかかわらず、気が付いてみると救われる前の価値観である「熱心に奉仕する信徒は合格、そうでない信徒は不合格」という価値観に振り回されているのです。
確かにこのような生き方をしていれば、イエスに絶縁宣言されても仕方のないことです。

◎神の御心とは何かをわきまえ、その御心を生涯掛けて行うお互いでありたいものです。
祝福を祈っています。

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