本気と嘘気(うそき)

今日は皆さんとご一緒に「求め続ける」ということを考えてみたいと思います。

①日本人的感覚から言うと「一度限り熱心に求めて、それでダメならすぱっと諦めるのがサバサバして気風(きっぷ)が良い」ということになります。

確かに男女間の関係ですと、それでいいのかもしれません。
片方の熱が冷めているのに、余りにしつこく相手を求めるなら、それは執着であり、ストーカー呼ばわりされることです。
しかしこれが神との関係になるなら、話は違ってきます。
偶像の神が信仰の対象であったときは、願い求めると言っても所詮それは一人芝居に過ぎませんでしたから、求め続けることをしてもしなくても結果は変わりませんでした。

しかし天地万物を支配なさる唯一の神様に願いをするときは、一旦(いったん)願い始めるなら実現するまで求め続ける気概(きがい)が必要とされます。

②ある人々は願い事が具体的でないということがあります。

ありのパパがある人に「あなたが欲しいものは何?」と聞きますと、その人は「わかりません。ただ幸せが欲しいです」と答えます。
さらに「何が自分のものになれば、あなたは幸せ?」と聞くと、やはり「具体的には……。只幸せになれれば良いんです」と言います。

人間は有限な存在ですから、人に何かを求めるときは、求めるものが具体的でなければ、相手はそれをイメージすることが出来ませんから、あなたに与えて上げたいと思っても与えることが出来ません。
では神様は全能だから、こちらが具体的なイメージを持っていなくても大丈夫でしょうか?
確かにそういうことも言えます。
しかしここで大切なことは、具体的なイメージを持たずに何かを神に求める人は、自分自身が神に求める段階まで到達していないということです。
「神に求める段階って何ですか?」とお問いになられるかもしれません。

③それは自分がそれを本当に欲しいと思っているかどうかということです。

かつてありのパパは「英語がしゃべれるようになるといいな」と漠然と思っていました。
それで様々な英会話教材を買いました。
そしてその英会話教材を目の前に並べて、それで満足していました。
しかしそれを実際に学ぶことはありませんでした。
ある時、その理由を考えてみました。
そうすると分かったことは「自分は英語を本当に話したいとは思っていない」ということでした。
自分の本音が何かをはっきり悟った後は、いかなる英会話教材も買わなくなりました(笑)。

私たちが本音のところで求めていないものは、私たちが建前でいくら願っても、神様はお与えにならないと思います。
ですから私たちが人生を無駄遣いしないためにも、神に願い求める前に、まず自分自身は本当にそれを欲しいと思っているかどうかを確かめることが肝要です。

④ペンテコステ派の主張に「異言を伴う聖霊のバプテスマ」という教えがあります。

この異言を伴う聖霊のバプテスマを、鹿が谷川の水を慕い求めるように神様に求め続けた数限りないクリスチャンたちがおります。
この人たちは皆、願いがかなえられ、聖霊に満たされ、神との人格的交わりのための賜物である異言の祈りをなすことができるようになりました。

もし本当に必要を自覚していたら、求めるのを止めるということは決してありません。
自分の物になるまで、執拗に求め続けるものです。

⑤リバイバルと教会成長の問題

リバイバルを願っていない福音派信徒はいないでしょう。
しかし本当に求めているものは何かを知るために自分自身を探る人は多くいません。
教会成長運動は、御国の拡大に繋がらず、ただ単に教会の量的成長ということに矮小化されてしまいました。
それは多くの牧師の真の願いが、自己の栄誉が高く挙げられること以上のものではなかったからです。
そのため実際に教会が成長したときには、カルト化の問題や教会員の財産や人権の侵害というトラブルが続発しました。
またセカンド・チャンスなどの教理的脱線も起きました。

これらは皆、牧師が自分の本音を神の御前で知ろうとしなかったために起きました。
もし自分の心を探っていれば、「傷の付いた心」の存在に気づいた時点で悔い改めることが出来たはずです。
それをしなかったばっかりに、サタンの罠(わな)に嵌(は)まってしまいました。

◎御心にかなう願いを私たちが祈り続けるなら、その祈りは必ず答えられることが出来ます。
祝福を祈っています。

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