聖書が教えるスピリチュアルな祈り、聖霊による祈りとは何か?

皆さんは日頃どんな祈りを神様に献げておられるでしょうか?
「いや~、最近祈ってなくて」という方もおられるでしょう。
そこで「本当の祈りとは何か?」ということを考えます。

①人に聞かせることを意識している祈りはアウト

礼拝などの教会で行われる集会で代表祈祷というのがあります。
その祈りを聞いていると「これは神様に祈っているのではなく、人に聞かせるために口を開いている」と感じるときがあります。
「それはお前が意地悪いからだ」と言われるかもしれません。(実際その通りです(笑))

実はこのような失敗をよくやってしまうのが、ありのパパ自身です。
「ありのパパさんの祈りを聞いて感動しました」とお世辞を言われて、いい気になることが何回もありました。

しかしイエスは『(このような人々は)既に報いを受けてしまっています』と言われます。
さらに『あなたは人に見せるような祈りではなく、天の父と交わるために(人目のつかないところで)祈りなさい。そうすればその祈りは必ず聞かれます』と教えてくださいました。

②同じ言葉を繰り返さない

人様の祈りをあれこれ言って申し訳ないのですが「主よ。主よ」「オォ~主よ」という言葉を何回も何回も繰り返される方がおられます。
もしこれが人間を相手に話をしていると考えると大変おかしな光景に映るでしょう。
「オォ~、ありのパパさん」「オォ~、ありのパパさん」と何回も言う人と話をしようとは私なら思いません。

それが会話の相手が神様になるとこんなおかしなことを平気でしてしまいがいちになります。
これは神が目に見えない御方であることが原因であると思います。

しかし心の目で神を見る必要があります。
心の目で神様を見るとは神が私を救ってくださったことや今まで良くしてくださったことを思い返して感謝を献げることです。
そうするなら必ず神が心の目で見えるようになります。

③「主の祈り」の早口言葉競争

主の祈りはイエスが同じ言葉を繰り返さないようにと言われた後で「だから、あなたがたはこう祈りなさい」と教えてくださったものです。
しかし私たちが主の祈りをするとき「祈っている」というよりは「唱えている」と言った方がふさわしいものになっていないでしょうか?
ありのパパなどは心の中で「早口言葉じゃないんだから」と思うときもあります。

私たちは主の祈りを時間をかけて祈る必要があります。
「天にいます父よ」は枕詞(まくらことば)ではありません。
「天の父が私の父である」ことがお腹にストンと落ちることが神との親しい人格的交わりをなすための基礎です。

ですから「天の父が私の父である」ことに深く納得がいくまで「天にいます父よ」のところに留まることです。
もし時間がなくなって後の部分を祈ることが出来なくなったとしても「天の父が私の父である」ことに深い気づきを得るなら、それで十分ということが出来ます。

④感情的に興奮して祈る異言の祈り

聖会などで会衆を感情的に高揚させて異言の祈りに導くときがあります。
異言の祈りは聖書によるなら「御霊の言い難き嘆き」です。
しかしこのように感情的にあおられる異言の祈りに御霊の言い難き嘆きを期待することはできません。
このような集会の導き方は異言を集会を盛り上げる小道具の一つに貶(おとし)めるものです。
異言で祈るときこそ人目のつかぬところで神との人格的交わりを求めたいものです。

⑤建前で祈る祈りと本音の祈り

皆さんは祈るときご自分の感情を自由に表出させておられるでしょうか?
それとも血も涙もないような事務的な祈りに終始しておられるでしょうか。

本音の祈りには必ず感情が伴います。
祈っている最中に嬉しかったり、悲しかったり、悔しかったり、腹が立ったりします。

建前で祈るとは感情に蓋(ふた)をして、あるべき自分があるべき行いをなすことが出来るようにと祈ることです。
しかしこのような祈りをいくらしたところで神からの応答を期待するのは無理です。

ダビデは「あの人を殺してください」と祈りました。
これはダビデが本心を自由に神にさらけ出すことが出来ていたことを現しています。
(決して「呪いの祈り」をしたのではありません)

ありのパパも長い間このような本音の祈りを献げることなど考えもつかないような信仰生活を送って来ました。
しかし神の憐れみによって感情を自由に神にさらけ出すことが出来るようになりつつあります。

神との人格的関係に目を向けつつ、本音で祈る信仰の生涯を歩ませていただきたいものです。

◎平安と祝福を祈っています。

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