完全とは何か?

マタイ伝の山上の垂訓が書かれてあるところから読み進めていくと、区切りの良いところに『あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全になりなさい』との主イエスのご命令が書かれてあるところに出会(でくわ)します。
聖書は「ありのままのあなたで良い」と言っているところと、この個所のように「完全になりなさい」と言っているところがあります。
この二つのことは一見矛盾しているように見えます。
実際、プロテスタント教会もこの二つの主張のどちらか一つだけを強調しているように見えます。
もちろん聖書を神の言葉と信じるクリスチャンは聖書全体から正しく神の御心を受け取ろうと努力します。
しかしこの二つの主張を一つの神の御心として受け取ることに成功できているとは言えない現実があります。
そこで今日は皆さんとご一緒に、「ありのままのあなたで良い」ということと矛盾しない「完全」とはどのようなものかを考えてみたいと思います。

その前に福音派教会は歴史的に「完全」をどのように理解していたのかを見てみたいと思います。

1.ウェスレアン・アルミニアン神学の教える完全とは?

①ウェスレーは、人間は神の御前で完全になることが出来ると考えました。

ジョン・ウェスレーと言えば、アルミニアン神学を土台にしてメソジスト運動を展開した人です。
そのメソジスト神学のことをウェスレアン・アルミニアンと呼びます。

アルミニアンは人間は神のようになれるとさえ考えるようになりました。
これは聖書からの甚だしい逸脱です。
ウェスレーはこのような誤謬を避けるために、一人歩きしやすい「完全」という言葉を限定的に使用するために「キリスト者の完全」という用語を作りました。
この「キリスト者の完全」は「天使が持っている完全」でもなく「人間としての完全」でもなく、ましてや「神が持っておられる完全」でもありません。
では「キリスト者の完全」とは、どのような完全かと言うと、それは「いつも喜べ。絶えず祈れ。全てのことについて感謝しなさい」が実行できていることであると、ウェスレーは教えました。
しかもこの「完全」に恵みによって一瞬のうちに到達できると教えました。
そして多くのメソジスト運動配下のクリスチャンたちに「キリスト者の完全」を目指すようにと教え勧めました。

②ウェスレーは完全にされる前に、義とされる必要があることを発見しました。

ウェスレーは「完全」となることができるように全力で長期間努力しましたが、当然のことながらその努力は失敗に終わりました。
その失意のうちに、最も重大な聖書の真理に目が開かれました。
それは「人は神の御前で聖とされる前に、神の御前で義とされていなければならない」ということでした。
義とされるとは救われるということであり、聖とされるとはキリスト者の完全の状態に入るということです。
このように義と聖の順番を正しく捉えることが出来たとき、聖霊の御業が著しく働き、メソジスト運動は燎原(りょうげん)の炎のように拡がって行きました。

③ウェスレレン・アルミニアンの完全論の問題点とは?

義とされるのも、聖とされるのも、神の恵みによるという理解は聖書的なものです。
しかしそもそも聖書は「キリスト者の完全」を言っているかどうかということは議論の余地のある問題です。
ウェスレアンは聖書の様々な個所から「キリスト者の完全」の教理を論証しようと試みました。
そのうちの一つが今日の個所であるマタイ伝の5章48節の「天の父が完全であるように、あなた方も完全でありなさい」という個所です。

ウェスレアン神学に内在する矛盾は「救われるときはありのままのあなたで良いと言ったのに、なぜ救われた後になって完全にならないといけないと教えるのか」という問題です。
上記のような質問を多くの信徒が牧師にぶつけていました。
しかしその質問に聖書から納得の行く答えをすることの出来ている牧師を発見することはありませんでした。

ありのパパ自身も、ありのままの自分で良いという思いと、完全にならなければならないという二つの矛盾する思いの中で葛藤を経験していました。

2.ありのパパが考える「聖書的完全論」とは?

①完全とは、一つ心ということです。

二つ心とは、片方ではキリストを信じて救われようと願うが、もう片方では自分の努力や行いによって救われることを願う心のことを言います。
このように二つの相矛盾する考えを心の中に温存していると、そこから出てくる行動もどっちつかずの生ぬるいものになってしまいます。
イエスは、クリスチャンが地の塩・世の光となるべきことや、人を憎むことの本質について、敵を愛することについて教えられました。
これらのものは皆、どっちつかずの心を持っているままでは実践できないものばかりです。
そこでイエスは教えの締めくくりに際して、心が単一であること、即ち一つ心であることの大切さをお教えなされたのだと思います。

②完全とは、二元論的生き方から、一元的生き方への転換を意味します。

二元論的生き方とは、努力が合格ラインに届いた者は救われ(報われ)、努力が合格ラインに届かなかった者は滅びる(報われない)と考える生き方です。
これを別の言葉で言うと、律法主義といいます。
律法が与えられた本当の目的は「律法を守ることによって救いに到達するという道は実現不可能な道である」ことを私たちが徹底的に自覚するためでした。
律法を守ることによって救われるという道を見限(みかぎ)って、努力によらず恵みによって救われる道、即ちキリストの十字架を信じることによって救われる道を選んだのだがクリスチャンです。

③もしこのクリスチャンたちが、救われた後にもう一度律法を守ることによって救われようとしたら、どういうことになるでしょうか?

これは理論的にはあり得ないことです。
なぜなら大学に合格できた者は決して再び受験勉強をしないように、救われた者は決して再び救われるための努力をしないからです。
しかし現実はそうではありません。
人間の心のうちには「自分の努力や行いによって救いに到達したい」という根強い願望があります。
その願望がクリスチャンをして、信仰による救いから[信仰と行い]による救いへと脱線させてしまうのです。
完全とは、自分の心の中から「行いによって救いに到達したい」との願いを追い出し、行いによらず恵みによって救われる道だけを選び取る人になるということです。

④完全とは、心が単一となってイエスが言われる実践の中に身を投じることです。

現代に生きるクリスチャンの問題の一つは、信仰は立派なのだが、行いが伴わないということです。
ここで言う「行い」には献金や奉仕や伝道は含まれません。
これらの奉仕を熱心に行うクリスチャンは数限りなくおられます。

ではどのような行いが不足しているのかと言いますと、それはおもに社会生活の面での行いです。
たとえば会社勤めをしているクリスチャンは、取引先との関係において聖い関係を保っているでしょうか?
聖い関係とは、賄賂を用いないことや、不公正な競争をしないということを意味しています。
事業をしているクリスチャンは、税務処理において公明正大さが求められていますし、従業員との関係において不当な要求をしないことも、聖さの中に含まれます。
家庭の主婦であれば、人の悪口や噂話をしないことが、聖さの中に含まれます。

⑤自分の敵を愛せよとは?

自分が敵だと思う人は、大体において自分と似たところのある人です。
自分の中にある自分でも嫌だと思うところを私たちはありのままに感謝をして受け入れているでしょうか?
もしそうしていないなら、自分自身を嫌っているなら、自分自身に似たところのある人を愛することは不可能です。
そして困ったことに、嫌だなと思う感情は相手の方に確実に伝わっているものなのです。
それが積み重なって、気が付くと、自分自身に似た人が自分の敵になっているという寸法です。
このように見てくると『自分の敵を愛しなさい』という教えが非現実的な教えではないことが分かります。
自分の敵を愛するとは、自分自身を愛することにほかなりません。

◎『あなた方の天の父が完全であるように、あなた方も完全でありなさい』
このイエスのご命令にあなたは何とお答えになるでしょうか?
祝福を祈っています。

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