恨みと和解

「この恨み、晴らさでおくべきか」と言ったのは、四谷怪談のお岩さんでした(笑)。
人間というものは自分が持っている恨みは忘れず、その恨みを晴らすのは当然の権利であると考えます。
しかしもしご自分が誰かに恨みを買っているといたら、どうでしょうか?
その恨みを買った相手が自分に恨みを晴らすのは、その人の当然の権利であると考えるでしょうか?
そうではないと思います。
やはり多くの人たちは「ちょっと待ってくれよ!勘弁してくれよ。何であんたが勝手に私を恨んだ恨みを晴らすんだよ!」と言うのではないでしょうか。
このように私たちは自分が持っている恨みには敏感であり、人に与えたかもしれない恨みには鈍感であるようです。

聖書は恨みについて何と教えているでしょうか?
今日はこのことについて、皆さんとご一緒に考えます。

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1.神との関係と人間関係

①人間関係がうまくいっていないと、神様との関係もうまくいかない

普通に考えると、どれだけ他者に恨まれようが(それ自体は辛い経験であったとしても)私と神様との関係には影響を及ぼさないように思えます。
しかし聖書はそうではないと言うのです。
どういうことかと申しますと、誰かに恨まれていることを知っていながら、その問題を解決しようとせず、宗教の中に逃げ込んでみても、その人の信仰生活は祝福されたものにはならないと教えているのです。

②恨まれていることを知ったときの間違った対応

「神様にお委ねします」と言ってはなりません。
その問題を解決する責任はあなたにあります。
もしそれを神に押しつけるなら、あなたは神様から偽善者と呼ばれることになります。

また「問題は向こうにあり、私にはない。あちら側が自分に問題があると気づくのを待ちます」と言ってもなりません。
丁度今、これを絵に描いたように実践しておられる分離主義カルトの牧師がいます。
自分に問題があるにもかかわらず、自分には何の問題もないとして、問題があるのは相手であるとし、頼まれてもいない心理分析をし、その的外れな分析を押しつけて悦に入っておられます。

③恨まれていることを知ったときの正しい対応とは?

まず謝罪することです。
「かつて謝罪して和解したのに、なぜまたぶり返すのか?」と言ってはなりません。
その謝罪が不十分であったからこそ、相手の方はもう一度声を上げたのです。

次に真の和解に至るように努めることです。
「密室で話し合いましょう」などと寝言を言うのを止めることです。
一体どこの誰が、虐待をした者と密室で二人きりになることを願うでしょうか?
陰謀論や妄想に頭を使っている暇があったら、どうしたら和解に至ることが出来るだろうかと知恵を働かすことです。

『礼拝に行こうとしている最中に、自分が誰かに恨みを抱かせているのに気づいたなら、そのままにして宗教行為に逃避するようなことをせず、恨みを抱かせてしまった人のところに自分から訪ね、和解に努めなさい。』[マタイ05:23]

2.教会内で起きたトラブルへの対処のルール

○信徒から心理的虐待の抗議がなされたとき、牧師は謙遜でなければなりません。

それが全くのデタラメであり、訴えた本人がピンピンしていると言うのであれば話はまた別です。
しかし叫びをあげている者が、精神的に追い詰められていることが誰の目にも明らかであり、殊に精神科医の診断を得ているような場合は、牧師には最大限の謙遜さが求められます。
万が一、被害者の身に不測の事態が起きるようなことがあれば、それは二次被害と言わなければならず、その全責任は当事者である牧師にあります。

『人殺しをしたままの血生臭い手で主を礼拝しても、主はその礼拝を受け入れては下さいません。』

3.謝罪は具体的な行動を伴わなければならない

①二度と心理的虐待を行わないとの誓約。

②他の教会を罵倒し、自分の教会を高めるという典型的なカルト手法であるエクソダス論を放棄するとの誓約。

③自分の気に入らない人を「頭のおかしい人」などと自分のブログに書くなど、一般の教会の牧師では考えられないような非常識な言動を悔い改めること。

『償う必要のある場合は、ためらわずそれをしなさい。』

◎聖書は、私たちの恨みではなく、私たちに恨みを持っている人の恨みを問題にしています。
私たちは人の恨みに対して聖書の教えに従って対応することが求められています。
平安と祝福を祈っています。