良心への服従

今日は書籍のご紹介です。
とは言っても、既に書店での取り扱いは終了しているようですので、図書館から借りて読むということになります。
題名は「良心への服従」、著者はアメリカ上院議員(出版当時)のM・ハットフィールドさんです。
出版社は日本基督教団出版局となります。
この本はアッセンブリー教団の村上密牧師のブログで紹介されていたものです。

①ビリー・グラハムへの態度

福音主義キリスト者にとって、ビリー・グラハムと言えば文句なしに「世紀の大伝道者」と思っている方がほとんどだと思います。
リベラル派キリスト教の人たちがビリー・グラハム伝道大会への反対声明を出しても、「やっぱりリベラルだから」と言う一言で終わってしまっていたと思います。
そう言っているありのパパ自身が、そのような受け取り方をしていました。
それがペンテコステ派の牧師である村上密さんも、ビリー・グラハムの政治的立場には反対であることを明確にされていたので驚きを感じました。
そのような結論になぜ導かれたのかの説明に、「良心への服従」という書物から影響を受けたことが書かれていました。
それでありのパパも読んでみようと思ったわけです。

②信仰的立場と政治的立場を分離することは可能か?

日本のキリスト教会などでは「神学的立場が違っても伝道のために一致しよう」などということが平気で言われます。
この考えで言うと、政治的立場が違っても信仰的立場で一致することは当然可能ということになります。
しかし現実問題として、神の御前で罪を犯すことなしに、そんなことが果たして可能でしょうか?
ありのパパは不可能だと考えています。
クリスチャンにとって、イエスを信じた後はイエスの教えを守って生きることが重要な関心事となります。
イエスの教えは「互いに愛し合う」ことです。
この教えをフィルターとして見たとき、たとえばベトナム戦争やイラク戦争を正当化できるでしょうか?
決してできないと思います。
国家の自衛権を神から与えられたものとして受け取ったとしても、ベトナム戦争やイラク戦争を自衛のための戦争であるとすることはできません。
そのベトナム戦争とイラク戦争を強力に支持し続けたのがビリー・グラハムでした。
どのような神学的小細工を施そうとも、人の命を奪うということは、自分の命を守るため以外には決して正当化することは不可能です。

③牧会的配慮と預言者としての使命

祭司としての役割と預言者としての使命の両方が教会には求められています。
そのどちらかの一方に偏るとき、教会は神から付託された使命を果たすことができなくなります。
祭司としての役割とは、聖書によるなら「上に立つ権威のために祈れ」ということになります。
善と悪という二元論的裁きによるのではなく、良いときも悪いときも常に指導者のために祈ることは、神が教会にお命じになった役割の一つです。

では預言者としての使命とは何でしょうか?
それは国家権力が神の御心に反したとき、神の権威を持って警告を発することです。
初代教会のとき、ユダヤ人議会が「決してイエスの名で語らないように」と命じたとき、使徒たちは「人に従うのと、神に従うのと、どちらが正しいことであるか」と応えました。
国家の指導者に神の御心を指し示し、神の御心に従うように教え諭すのが、預言者の使命です。

④政治は誰がしても同じではありません。

テレビの街頭インタビューを見ていると、必ず出てくるのが「誰がやっても同じ」というものです。
果してその通りでしょうか?
もし誰がやっても同じなら、預言者の使命を果たす必要はないということになります。
ですから聖書から見ても、この「誰がやっても同じ」というのは間違った意見であることが分かります。
政治指導者は神の御心に従う人でなければなりません。
神の御心に逆らう人は、政権の座から引きずり降ろされ、神の御心に従う人が新たな政治指導者とならなければなりません。

⑤キリスト教がローマ帝国で公認されるまでは、キリスト者は頑固に聖書に従う人々でした。

それがローマ帝国に公認されると、教会はなし崩し的に方針転換を行いました。
この時には既に教会は組織化・権威化されていたようで、教会の新たな方針に従わない信者は破門するという御触れさえ出しました。
キリスト教の公認とともに、教会の暗黒時代もまた到来したようです。

◎この本に書かれていることは、私たち現代に生きるキリスト者にとって忘れていた真理を思い出させてくれるものです。
どうぞ、みなさんも図書館でこの本をお借りになって、読んでみてください。
読んでみての感想などをコメントしてくだされば幸いです。

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