聖書が約束している神の愛をどうしたら体験的に知ることができるか?

聖書は明確に「私たちは神に愛されている」と言っています。
そして驚くべきことに神の愛は体験できるとも言っているのです。
ではどうしたら神の愛を体験的に知ることが出来るのでしょうか?

1.愛されているのを知りたがる女と「もう大丈夫」と勘違いする男

奥様は御主人に自分が愛されていることを知りたいと常に願い、そのために「言葉」や「まなざし」や「プレゼント」を求めます。
女性は愛されていることを常に確認したい存在であると言うのは言いすぎでしょうか?

これに対して男性はすぐにそのつもりになってしまいがちな存在です。
男性が「結婚したから俺たちはもう大丈夫」と考えてしまいがちであるのに対して、女性は「さぁ、これからが始まりよ」と思っているのです。
ですから女性は結婚した後も「私のこと、愛してる?」とか「私のこと大切?」とことあるごとに聞いてきます。
これを「うるさい」と感じるようではお先真っ暗です。

人の愛を知ることに躊躇する人はいません。
かえってしつこすぎるぐらいに愛されていることを確かめようとします。
では神に愛されていることについてはどうでしょうか?
同じようにしつこく神に求めているでしょうか?

2.神に愛されているかどうかは最も重要な問題

どういうわけか私たちは神に愛されていることを知ろうとするのを躊躇します。
それで「聖書にもそう書いてあるし、牧師もそう言うから愛されているに違いない。そういうことにしておこう」と考えます。
しかし「愛されているはず」というのと「愛されている」というのは全く異なることです。

なぜなら「愛されているはず」では人格的な満足がないからです。
人格的な満足がないと私たちの心や生活が全然変わりません。
ただ信じているだけであり、信仰は私たちにとって重荷となります。
ですから私たちはどうしても自分自身が神に愛されていることを体験的に知っている必要があります。
どうしたら神の愛を実際に体験できるでしょうか?

3.自分が救われているのを知ることが出来る

①自分が赦されているのを知ることによって

これを「救いの確信」と呼びます。
神にしつこく救いの確信を求めるなら、神はある時に祈りと願いに応答してくださいます。
救いの確信とは自分が父なる神に受け入れられているということを意味します。

ありのパパはイエス様を信じるまでは、人に受け入れられたという経験が乏しかったのです。
しかしこの救いの確信という圧倒的な霊的経験が与えられたことによって、自分が神に受け入れられているということが疑いようのない事実となりました。
まさしく神に受け入れられたという霊的な経験がありのパパの人生の基礎となりました。
もし皆さんの中でご自分の救いについて確信がないという方がおられましたら是非神に救いの確信を求めてみてください。
神は必ず求めに応じて救いの確信をお与えくださいます。

②自分が自分自身を赦すことによって

神が私たちを赦してくださっているにもかかわらず、自分自身を赦さない人がいます。
これが現代のクリスチャンの姿ではないでしょうか?
「これが出来たら合格。こんなことが出来ない自分は不合格」と自分自身を責め抜くとき救いの喜びが消え失せていきます。
自分が自分自身を赦すとき神の愛が私たちの魂だけでなく心全体に拡がっていきます。
このような生き方を実践するなら「霊と魂の切り分け」は必要ありません。

③隣人を赦すことによって

神によって自分自身が赦され、自分も自分自身を赦したなら即座に隣人を赦すことを始める必要があります。
もし自分自身は赦すが隣人は赦さないというのなら、その人は偽善者ということになります。
私たちはお金を払わないで無代価で救いを受け取りました。
そうであれば私たちは無条件で隣人を赦すことをしなければなりません。
(これは犯罪を行った者を無罪放免にするとか、誰かに赦すことを強制されるということを意味していません。)

自分自身を赦し、隣人を赦すとき、神の愛は私たちの心から溢れ出るようになり、私たちの周囲に満ちあふれるようになります。
神の愛は人間関係を変え、環境を変えます。

◎平安と祝福を祈っています。

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